(この背景地図等データは、国土地理院の地理院地図から配信されたものである)
周文(しゅうぶん)
(典拠あり、類型多数)
新日本海フェリーの苫小牧東港ターミナルは、その名に反してお隣の厚真町浜厚真にあるのですが、通称「周文埠頭」と呼ばれています。実は、ずっと「これ、どう読むのかなー?」と疑問に思っていたのですが、どうやら現在は「しゅうぶん」と読むのが正解のようです。「しゅうぶん」と読ませるのであればアイヌ語かもなー、と思って調べてみたところ、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」がヒットしました。次の通りです。
周文(しぶん)
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.74 より引用)
おっと。いきなり違う読みで入りました!厚真町の古い字名。岩見沢の近くの志文と同じシュプン・ペッからでたもので、うぐい川という意味であると思われる。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.74 より引用)
ふむふむ。supun-pet で「ウグイ・川」なのですね。なお、残念なことに、厚真町には「周文」という地名は現存していないようで、現在「鯉沼」と呼ばれているあたりが、かつて「周文」だったようです。
ちなみに、我らが「角川──」(略──)には、次のようにあります。
しゅふん シュフン <厚真町>
古くはシプン・シブンともいい,周文とも書いた。胆振(いぶり)地方東部,勇払(ゆうふつ)平野の南東部,厚真川下流域。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.700 より引用)
そもそもが supun なのであれば、「シブン」よりも「シュプン」のほうが原音に近そうな感じもするのですが、文化年間(1804 - 1818 年)の資料には、既に「しふん」と記されているのだそうです。その後「周文」となったいきさつについても、次のように記されています。当初はシュフン・シュブンの片仮名表記であったが,大正4年厚真村の一級町村制施行に伴い,部長制がとられ,「厚真村会議決書」には「第十一部 字周文一円」と見える。同8年の5万分の1図にも「周文」と漢字名が見えることから,大正初期に周文の字が定着したと思われる。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.700 より引用)
なるほど、大正初期に「周文」という漢字が定着したのですね。「周文」で「しゅうぶん」と読ませるのはとても自然で、無理矢理感も殆どしないのですが、どうしてこの地名を捨ててしまったのでしょうね。とても勿体ない気がします。
軽舞(かるまい)
(典拠あり、類型あり)
厚真町南部の地名で、同名の川もあります。では早速、今回も更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょう。軽舞(かるまい)
野安部川の小川。意味不明。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.75 より引用)
……久々に来ましたね。これぞまさに This is Rock! という感じです。杜甫ウニくれて……じゃなくて途方に暮れていたところ、こんな記載を発見。
老軽舞(おいかるまい)
厚真町の地名。オイカルは葛のこと、オマイはそれのある所という意味で、今軽舞と改正。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.74 より引用)
ふむふむなるほど。……じゃあさっきの「軽舞」の項目は何だったんだろう? という疑問も出てくるわけですが、とりあえず見なかったことにしましょうか。oikar-oma-i で「葛・そこにある・ところ」という意味ですね。ちなみに、明治期に編纂された「大日本地名辞書」には「追軽舞」との記載があります。また、「角川──」には
大正8年の5万分の1図では「軽舞」と見え,昭和3年には正式に漢字名が使われた。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.422 より引用)
とあるため、「おいかるまい」の「老」の字は、必ずしも固定されていたわけでは無かった、とも言えそうです。野安部(のやすべ)
(典拠あり、類型多数)
厚真町にかつて存在した地名で、現在は「豊丘」という名前の集落になっています。なお、「野安部」は当地を流れる川の名前として健在です。では、今回も更科さんの「──地名解」から。
野安部(のやすべ)
厚真町の地名。ノヤ・ウシ・ぺでノヤはよもぎだから、よもぎの多く生えている川の意味である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.74 より引用)
ということで、「野安部」は noya-us-pet で「よもぎ・多くある・川」だったようです。ところで、先ほどの「軽舞」に話を戻したいのですが、更科さんは次のように記していました。
野安部川の小川。意味不明。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.75 より引用)
ところが、現在の地図を見ると、野安部川は軽舞川の支流として扱われています。さらに調べていくと、厚真町上野・富野のあたりが、かつて「野安部太」と呼ばれていたらしいのです。「太」がつく地名は「空知太」や「十勝太」などがありますが、いずれもアイヌ語 putu を音訳したものです。「野安部太」も同様で、どうやら嘗て野安部川がこのあたりで厚真川に注いでいたと考えられます。
不思議なのは、かつて「下野安部太」と呼ばれていた富野でも、現在の合流点よりも遙かに北側(上流側)に位置することです。野安部川の下流部は、現在とかなり違った流路になっていたことが考えられそうです。
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