2014年5月19日月曜日

中標津の軍用未成線?(完結編)

昨日の記事の続きです。

ここに、もう一枚の航空写真があります。こちらは 1948 年に米軍によって撮影されたものです(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=71812&isDetail=false)。諸元は次の通りです。
この写真をトリミングして、キャプションをつけてみました。こちらも前回ご紹介したものと同じく、海軍標津第一飛行場と中標津市街を一望できる写真です。
(この背景地図等データは、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)
飛行場ができる前は、殖民軌道根室線がこのようなルートを通っていました。
(この背景地図等データは、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)
殖民軌道根室線のこの区間は、1937 年 10 月に廃止され、その後、近くに海軍標津第一飛行場が建設されます。ちなみに、結果的に日の目は見なかったものの、赤枠で囲った部分にも滑走路を建設しようとしていたようです。
(この背景地図等データは、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)

謎の遺構?

ところが、1948 年に撮影されたこの写真には、ちょっとおかしなものが見て取れます。オレンジ色でトレースした部分です。
(この背景地図等データは、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)
かつての殖民軌道根室線に接続する形で飛行場滑走路の南側に向かう線と、同じく殖民軌道に接続する形で標津川を越えようとしている線です。

築堤の跡?

標津川のあたりを、別の写真で見てみます。同じく 1948 年に米軍によって撮影されたものです(http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=70910&isDetail=true)。諸元は次の通りです。
この写真からは、殖民軌道根室線に接続する部分の手前に築堤があったようにも見えます。
(この背景地図等データは、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)

殖民軌道根室線の跡?

ようやく本題なのですが、これは一体何なんでしょうか?

この写真を見た感じでは、これはやはり鉄道の線路のように見えます(道路の跡と考えるには、カーブが緩やかすぎるように思えます)。しかしながら、殖民軌道根室線の線路跡では無いようです。

殖民軌道根室線の厚床-中標津間は 1933 年から 1934 年にかけて廃止され、代わりに国鉄標津線が中標津まで開通しています。これにあわせて、殖民軌道根室線の中標津駅は国鉄中標津駅の近くに移設されています(但し、それぞれの中標津駅の間は少し距離がありました)。一つの可能性として、殖民軌道根室線が国鉄中標津駅に乗り入れるための新線を建設していた、というものも考えられるかと思います。

ただ、この仮説にはいくつか疑問点が出てきます。まず、この線路跡?と思しき線のカーブが従来の線路と比べてかなり緩やかであることです。軽便鉄道相当だった殖民軌道の線路としては、少々高規格すぎるようにも思えます。

もう一つの疑問点のほうが重大なのですが、仮に殖民軌道の線路改良なのであれば、飛行場に向かう線路跡?は一体何なんだ、ということです。

飛行場に向かう線路跡?

問題の「飛行場に向かう線路跡?」は、1960 年発行の 1/25000 地形図にも痕跡が残されています。
(この背景地図等データは、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)
はっきりと滑走路に向かう道路の存在を見て取れる反面、標津川の前後にあった線路跡?の痕跡は消え失せています。当時の標津川はここで大きく蛇行していたのですが、現在は川が改修されて曲がりが緩やかになっているため、仮に線路跡があったとしても、河川改修に先立って撤去されてしまった可能性も考えられそうです。

海軍専用線の未成線?

本題に戻りましょう。この遺構の正体は何なんでしょうか。

国鉄標津線と海軍専用線、そして「謎の遺構」とその間の殖民軌道根室線の跡を俯瞰すると、次のようになります。
(この背景地図等データは、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)
想像を逞しくすれば、この遺構は、飛行場への専用線の跡、より正確には専用線の未成線なのではないでしょうか。
(この背景地図等データは、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスから配信されたものである)
そう推論するに至った根拠は次の通りです。
  • 海軍標津第一飛行場は中標津の市街地から少し離れているため、オペレーション人員や物資の移動に専用線があると便利だった
  • 旧・殖民軌道根室線の路盤を転用することで、当初は建設が容易であると考えられた

一方で、次のような矛盾点も考えられます。
  • 標津川を渡るあたりの新設路盤は比較的高規格だが、殖民軌道根室線の路盤跡は急カーブ(おそらく急勾配も)が続くため、国鉄車両の乗り入れは本当に可能だったのか
  • 北方からの専用線が存在するのに、別途中標津からの専用線が必要だったのか

これらの矛盾点については、次のように考えてみました。
  • 当初は中標津からの専用線敷設を決めて実際に建設を行ったが、困難が多いと判明し、中標津からの専用線を放棄し、北方から専用線を新設した

この「困難が多い」点ですが、旧・殖民軌道根室線の急勾配(想定)と、標津川の架橋だったのではないかと想像しました。戦中の鉄道建設においては金属類の使用は極限まで抑えられていたため、鉄橋の建設は可能な限り排除されていました。

そこで対案として浮上したのが北方からの専用線だったのではないか、と思うのです。北方からの専用線であれば、標津川を渡る必要が無く、また、勾配も比較的穏やかだったと想定されます。デメリットとしては中標津市街からは随分と遠回りになるというところですが、これは決定的なデメリットとはなり得なかったものと推測します。

ですので、これらの遺構は、戦中に建設が開始され、程なく放棄されてしまった海軍専用線の未成線ではないかと考えたのですが、いかがでしょうか。

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