2014年1月12日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (31) 東京~春日部 (1878/6/10)

引き続き、1878/6/10 付けの「第六信」(本来は「第九信」)を見ていきます。

旅券

イザベラは、日本の奥地を旅するにあたって、英国公使ハリー・パークスから「事実上は無制限ともいうべき旅券」を入手した、と記しています。「普通の片道切符」ではなく「周遊券」を手にしたようなものだったのでしょうね。うまくやりましたね。

ふつう旅券には、その外国人の旅行する路筋を明記することになっている。しかしこの場合は、サー・H・パークスが事実上は無制限ともいうべき旅券を手に入れてくれた。路筋を明記しないで、東京以北の全日本と北海道の旅行を許可しているのである。この貴重な書類がなければ、私は逮捕されて領事館へ送り戻されるかもしれない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.69 より引用)
イザベラの旅券が、いかなる理由で申請されたかも記されています。

旅券の申請は、「健康、植物の調査、あるいは科学的研究調査」の理由による。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.69-70 より引用)
イザベラの旅は、端的に言えば「冒険」でしかないのですが、その「冒険」の科学的な位置づけが記されていますね。「あるいは科学的研究調査」という題目は、ある意味では最強かもしれません。

旅券には様々な禁忌事項も記されていたようです。

所持者は森林の中で火を燃やしたり、馬上に火を持ち込んだり、畑や囲い、あるいは禁猟地の中に侵入してはならない。寺院、神社、あるいは塀に落書きをしたり、狭い道路で馬を速く走らせたり、「通行止」の掲示を無視してはならない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.69-70 より引用)
これらの禁忌事項はおおよそ理解できるのですが、「馬上に火を持ち込む」のが NG なのはどういった意味合いがあったのでしょう。木曾義仲の「倶利伽羅峠の戦い」を想像したりしてしまいますが、多分、全然関係無いですよね。もしかしたら、今で言う「給油中エンジン停止」のようなもので、馬をみだりに興奮させないように、という意味だったんでしょうか。

欧米の圧力に事実上屈服していた当時の日本ですが、それでも次のような遵守事項を留保していたようです。

日本の当局および国民に対しては、順法的で物柔らかな態度で振舞わなければならない。また、要求のあった場合には、いかなる役人にも旅券を呈示せねばならない。これに反すれば逮捕される。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.69-70 より引用)
でも、「順法的で物柔らかな態度」で振る舞ったとしても、役人のほうががっちがちになっていたであろうことが容易に想像されますね。あ、でも十数年前には「攘夷だ!」などと口走っていた人たちもいたでしょうから、未だに血の気の多かった人もいたのでしょうか。

現代にも通じるような条項もあったようです。

日本の奥地にあっては、狩猟や交易を行なったり、日本人と商取引きをきめたり、あるいは必要な旅行期限を越えて家屋や部屋を賃借してはならない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.69-70 より引用)
この辺は、長く続いた鎖国政策の影響が色濃く残っていたのでしょうか。ただ、こういった制限事項は至極まっとうなものですよね。思ったよりも遺漏が無いなぁ、と感心していたりします。

車夫の服装

しばらくイザベラの旅準備の話が続きましたが、ようやく、本当に出発です。

 日光、六月十三日──ここは日本の天国の一つである! 「日光を見ないで結構と言うな」という諺がある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.70 より引用)
え、そんな諺があったんですね(笑)。「ベニスを見て死ね」だったら聞いたことがありますが……。

日光に向かったイザベラ一行ですが、Day 1 のゴールは「粕壁」だったようです。見たことの無い地名に思えますが、読んでみると答は簡単。「かすかべ」ですね。

 私は月曜日の午前十一時に公使館を出発し、午後五時に粕壁に着いた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.70 より引用)
イザベラ一行が日光への「足」として雇った、車夫についての描写が始まりました。

 これらの車夫たちは、青い木綿の短い股引をはき、帯に煙草入れと煙管をさしこみ、袖の広いシャツは青い木綿で短く、胸のところを開けており、腰まで達していた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.70 より引用)
青……というのは、紺色のことですよね。洋服とはほど遠い服をまとっていたようです。タバコとキセルを切らさないというのが粋だったのでしょうか。

更に、上着の下に見え隠れするものにも言及します。

上着は、いつもひらひらと後ろに流れ、竜や魚が念入りに入れ墨されている背中や胸をあらわに見せていた。入れ墨は最近禁止されたのであるが、装飾として好まれたばかりでなく、破れやすい着物の代用品でもあった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.71 より引用)
ふーむ。彫り物の歴史は長いのですね……。「入れ墨は最近禁止された」というのは、明治政府はこの手の風習が「前近代的である」と考えていたのでしょうか。「破れやすい着物の代用品だった」という解釈には驚かされます。そういう意味もあったのかな……?

イザベラの筆致は、車夫の頭の上にも容赦がありません。

 下層階級の男性の多くは、非常に醜いやり方で髪を結う。頭の前部と上部を剃り、後ろと両側から長い髪を引きあげて結ぶ。油をつけて結び直し、短く切り、固い髭を前につき出し、もとどりの後部に沿って前方にまげてある。このちょん髷は短い粘土パイプによく似た形をしている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.71 より引用)
うっ。確かに「短い粘土パイプ」に似た形ですが……(笑)。

江戸の実景

イザベラ一行の車列は、東京の郊外へと差し掛かります。足立区か、あるいは草加市あたりでしょうか。

やがて私たちは東京(エド)のはずれに来た。ここまで来ると、家並みはもはや続いてはいない。しかしその日は一日中、家と家との間隔はほとんどなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.72 より引用)
東京から春日部に向かったということですから、おそらく日光街道を通ったことと思われます。現代の国道 4 号線に近いルートだったことでしょう。

これらの家の大半は路傍の茶屋で、売っているのはたいていお菓子、干魚、漬物、餅、干柿、雨笠、人馬の草鞄であった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.72 より引用)
日光街道は「五街道」のひとつですが、この記述を見ると、東海道に負けないレベルで街道筋は栄えていたようですね。沿道には「茶屋」が、そして宿場町には「宿屋」があったわけですが、それらの違いについての考察が後ほど出てきます。

こんなことは書いてよいものかどうか分からないが、家々はみすぼらしく貧弱で、ごみごみして汚いものが多かった。悪臭が漂い、人々は醜く、汚らしく貧しい姿であったが、何かみな仕事にはげんでいた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.72-73 より引用)
こういうことを書いて良いのかわかりませんが(真似か)、現代の東南アジアや南アジア諸国を想像すると、似たり寄ったりだったかもしれません。

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