2013年11月30日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (162) 「作返・振老・六志内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである)

作返(さくかえし)

sak-o-kay-us-i??
夏・河口・波・多くある・ところ
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
幌延町と天塩町の間には天塩川が流れていて、国道 40 号の天塩大橋を渡って南に進んだところで国道 232 号と分岐しています。このあたりの地形図を見ると「サツカヘシ」という地名があり、そこから少し東には「作返」という地名があります。地形図上は違う地名のようですが、由来は同じなんじゃないかな……と思わせます。

では、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」を見てみましょう。

 サッカイシ
 天塩川左岸畑作地帯。もと作返という字を当てたりした。サッカイシは夏に湖が増水するところの意だという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.154 より引用)
ふむふむ。やはり「サツカヘシ」と「作返」の由来は同じと考えて良さそうですね。ただ、どうにも意味が良くつかめません。

ちなみに「角川──」(略──)には、次のようにあります。

地名は,アイヌ語のサㇰカチウシ(夏になると湖水が増水するところの意)に由来する(天塩町史)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.593 より引用)
うーむ。カナ表記は揺れているものの、解釈は見事に一致していますね。天塩町史の元ネタが更科さんである可能性も十分考えられそうですが……。

さて、どうにもアイヌ語での解釈がうまくいかないので、もう少し続きを見てみましょうか。

江戸期の松浦武四郎「丁巳日誌」に「サコカイシ,右の方小川有。其上に沼有るよし。春頃水嵩多き時は運上屋を立て,此処にて泊るよし也」と見える。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.593 より引用)
んー、もしかして sak-o-kay-us-i だったのでしょうか。これだと「夏・河口・波・多くある・ところ」となります。ちょっと弱いところは、一般的には「波」は koykay-kay とする場合が多いようで、kay を「波」と解釈するところがちょっと恣意的かも知れない、という点です。まぁ、音韻変化の可能性もありますし、あるいは単に kay-kay を略しただけかも知れない、ということで……。

振老(ふらおい)

hura-wen-i
臭い・悪い・ところ
(典拠あり、類型あり)
幌延から国道 232 号で天塩の中心部に向かう途中の地名です。かつて国鉄羽幌線の駅もあったのだとか。

では、今回は山田秀三さんの「北海道の地名」から。

振老 ふらおい
天塩町内。天塩川をサロベツ川口から少し上った処の南岸の地名。国鉄振老駅あり。ここはフラウェニといわれた処で,語義はフラ・ウェン・イ(hura-wen-i においが・悪い・処、あるいは川) であったようである。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.140 より引用)
富良野と同じく「におい」系の地名だったのですね(汗)。更科さんの「──地名解」にも、次のようにあります。

アイヌ語のフラ・ウェン・イで、臭いの悪い所が転訛したものであるが、この臭いの悪いのは何であるか不明。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.153 より引用)
おおよそ想像通りですね。一体何の臭いが悪かったのでしょう。hura-wen-i で「臭い・悪い・ところ」という意味でした。

六志内(ろくしない)

ru-kus-nay
道・通っている・川
(典拠あり、類型あり)
「ちゅーちゅープリン」で有名な天塩町の中心部から見て東に位置する地名で、「六志内」「六志内川」「ロクシナイ峠」のほかに「ルークシュナイ」という地名もあります。サージェントルーク篁III世みたいで格好良いですね(←

ちなみに、天塩町の中心部から隣の中川町に向かうには、ロクシナイ峠を通って雄信内に出て、そこから天塩川沿いに国道 40 号を走るのがおそらく最短ルートだと思います。というわけで、この峠道は昔から重用されたものだと思われるのですが……。

というわけで前振りはこの辺にして、山田秀三さんの「北海道の地名」をどうぞ。

六志内 ろくしない
天塩川口に東の山から来て注いでいる川名,その川筋の地名。この川を溯って六志
内峠を越えると,少し川上の雄信内に出る。天塩川の最下流は大きく屈曲しているので,この峠越えをするのが上流への近道である。六志内はル・クㇱ・ナイ(ru-kush-nai 道が・通っている・沢)で,語義通りの名である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.139 より引用)
はい。ru-kus-nay で「道・通っている・川」でした。重要な峠道だったからこそ、地名になったということですね。

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2013年11月29日金曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (150) 「姫沼の木道をゆく」

木道をゆく

姫沼のまわりには、沼をぐるっと囲む形で木道が整備されています。
そして、重要な注意事項が……
「木道の幅は 75 cm です」と書いてあるのですが、そんなに狭いようには見えないですね。この先狭くなるということでしょうか。

木道は木立のなかへ

水際まで木が繁茂しているので、必ずしも木道から沼を見ることができるわけでは無いのですが、このように、ところどころでは沼を眺められるようになっています。
また、ビューポイントでは、足を止めてゆっくりと沼を眺めることができるように、木道の幅を拡げていて、転落防止用の柵も用意されています。
この木は落雷にでもあったのでしょうか。
木道は、木立の中に伸びています。

ほっとする空間

お、水鳥の姿が見えますね。鴨でしょうか……?
人に慣れているのか、割と近いところでも平気なようです。
こんな感じの距離感ですね。
どことなくほっとする空間が広がっていました。

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2013年11月28日木曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (149) 「河口が静かなオモベツ沢」

グランパノラマ

前日に引き続き、姫沼にやってきました。
あれ、このバスは……。
はい。礼文島でも見かけた「二階建てバス」なんですが、これも宗谷バスの車両だったんですね。
もしかして、前の日に礼文島ですれ違ったバスと同じナンバーかな? と思ったのですが、残念なことに 1 番違いでした。おそらくほぼ同時に登録された、兄弟車のようなものなのでしょうね。

想い出橋

では、駐車場に車を停めて、姫沼探索とまいりましょう!
遊歩道を歩いていると、吊り橋のような形をした(厳密には吊り橋では無いと思いますが)橋が見えてきました。
この橋、なんと「想い出橋」という名前なのですが……
由来は、もしかしてこれでしょうか。
オモベツ沢。o-mo-pet であれば「河口・静か・川」という意味になりますね。あ、書庫が違う!(汗)

河口が静かなオモベツ沢

ただ、河口のあたりがどうなっているかはわかりませんが、「想い出橋」のあたりの「オモベツ沢」は、さらさらと心地よい音をたてて流れていました。
「想い出橋」を越えて 1~2 分ほど歩くと、
「利尻礼文サロベツ国立公園」の「姫沼」に到着です。

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2013年11月27日水曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (148) 「『利尻ゲンゲ』に『リシリヒナゲシ』」

「利尻ゲンゲ」に「リシリヒナゲシ」

ペシ岬遊歩道から、とうとう鴛泊の町に下りてきてしまいました。
コンクリートの擁壁に、花のパネルが張られています。たとえば……
こんな感じで。左から「利尻ゲンゲ」「ハマナス」「リシリヒナゲシ」「利尻リンドウ」「エゾスカシユリ」「エゾツツジ」だそうです。

鮮やかに咲き誇る

「かのう亭」さんの前まで戻ってきました。
歩道の脇で咲き誇っているこの花は、一体何の花なんでしょうね。

ここからは車で

ようやく車に戻ってきました。
気温は 21 度。やっぱりちょっと涼しくなってきましたね。ペシ岬の頂上付近ではもっと寒かった筈です。
というわけで、これから時計回りで(前日とは逆方向)利尻島をひと周りしてみます。
湾内から鬼脇まで 15 km、仙法志まで 25 km は何となく理解できるのですが、沓形まで 37 km というのは結構意外な感じですね。時計の針で言うと 12 時の方向から 45 分の方向までグルっと回ることになるのですが、37 km しか無いのですね。

まずは姫沼へ

では、昨日は時間切れで場所チェックだけで終わった、姫沼探索に行ってみます。

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2013年11月26日火曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (147) 「32 年目のタイムカプセル」

タイムカプセル!

「会津藩士の墓」の脇から小径を辿っていった先にあった、謎めいた一角の話題を続けます。
石碑の隣には、しっかりとした台座のようなものがあるのですが……
あ、そういうことでしたか(笑)。ここにはタイムカプセルが埋められているのですね。

「東利尻町100年の一節の姿を50年後の世代へ贈ります」とあります。東利尻町が利尻富士町に改称したのは 1990 年のことですから、このタイムカプセルはそれ以前のもの、ということになりますね。

東利尻町が町制を施行したのは 1959 年のことですから、東利尻町自体の歴史は 31 年しかありません。前身の「東利尻村」を含めても 34 年です。ただ、鴛泊村に戸長役場が設置されたのが 1880 年のことだそうですから、1980 年あたりに「100 年記念」でタイムカプセルを埋めた、ということかも知れません。

50 年後というと 2030 年ですね。あと 17 年後を楽しみに待ちましょう。

32 年目のタイムカプセル

「タイムカプセル」の碑文の隣には、なにやらパネルがあるのですが……
うーん、何が書かれていたか全く予想すらできない、見るも無惨な状態になってますね。50 年間状態が保てると思ったのでしょうか……。
時間は朝の 9 時 31 分。ちょうど礼文に向かってフェリーが出港していきました。

手つかずのままで

石碑の手前には、花壇のような、石の枠組みが見えます。
ただ、花壇として整備しているわけではなく、自然のなすがままに任せているように見えます。

では、小径を戻りましょう……。
きちんと手入れされた花壇もいいものですが、自然のなすがまま、というのも悪くないものですね。

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2013年11月25日月曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (146) 「下界へ」

下界へ

それでは、ペシ岬の頂上から下界に戻ることにしましょう。
あれ? なんでこんな所に耳かきが……(白々しい)。
鴛泊のあたりは、このような、ごろた石の海岸が多いですね。礼文もそうだったのですが、砂浜を形成するには海が荒々しすぎるのかも知れません。
9:10 ごろに鴛泊に到着したフェリーですが、9:27 頃にはランプウェイも片付けて、今にも出港しそうになっていました。

「会津藩士の墓」まで戻ってきました

というわけで、およそ 10 分ほどかけて「会津藩士の墓」の前まで下りてきました。
改めてペシ岬の頂上を見てみると……
結構な高さですよね(汗)。

おや、この小径は……?

「会津藩士の墓」がある広場はフェンスで囲われているのですが、よーく見るとフェンスに隙間があります。
道もついていますね。行ってみましょう。
これは一体……何でしょう?

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2013年11月24日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (161) 「兜沼・豊富・幌延」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである)

兜沼(かぶとぬま)

peray-sar-to
魚を釣る・葦原・沼
(典拠あり、類型あり)
豊富町北部の地名で、JR 宗谷本線にも同名の駅がありますね。

では、地名の由来を見ていきましょう。今回は久しぶりに「北海道駅名の起源」から。

駅前にある沼の形が、かぶとのくわ形に似てているためこのようにいったのである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.182 より引用)
ぬ、「かぶとのくわ形」って……? もしかしてカブトムシのクワガタムシのことなんでしょうか。いや、クワガタムシとカブトムシは別物だと思いますが……。

ちと気になったので Wikipedia で確認してみました。

平安時代以降の兜には、額の部分や側頭部等に立物(たてもの)と呼ばれる装飾部品が付くようになり、特に額の左右に並んだ一対の角状の金属の立物を鍬形(くわがた)と呼びクワガタムシの語源となった。
(Wikipedia 日本語版「」より引用)
あ。またしても無知を暴露してしまいました(汗)。もともと「クワガタ」って兜のパーツの一部だったんですね。

念のため、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」も見ておきましょうか。

駅の近くにある沼の形が、兜に似ているから名付けたというが、ちょっと見たところ、そんな感じがしないから、地図を見て名付けたのかもしれない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.180 より引用)
ふむふむ。そんなところかも知れませんねぇ。さて、気になるアイヌ語の地名ですが(もはや誰も気にしてなかったりして)……。

アイヌ語でペライサルトーと呼ばれていた沼で、ペライは魚を釣ることであり、サル・トは葺原の沼の意である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.180 より引用)
ふむふむなるほど。peray-sar-to で「魚を釣る・葦原・沼」ということですね。

豊富(とよとみ)

panke-epe-kor-pet
川下の・食物(魚)・持っている・川
(典拠あり、類型あり)
幌延の北に位置する町で、サロベツ原野や油の浮いた豊富温泉でも有名ですね。もともとは幌延村の一部だったそうです。

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には、次のようにあります。

 豊富(とよとみ)
 豊かな感じを受ける日本的な地名で、昭和十五年に幌延村から分村するときに豊富村としたが、豊富の地名はそれ以前から幌延村字沙流の市街地の名としてあったもので、
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.179 より引用)
相変わらず文章が長いので、今回は途中で切ってしまいました。あしからず。

なるほど。もともとの地名は「沙流」だったのですね。sar はご存じの通り「葦原」といった意味ですね。それが何故「豊富」になったのかという話ですが……

この地名はこの市街地の傍を流れているパンケ・エベ・コ ・ベッの川の名の一部を意訳してつけたもの。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.179 より引用)
「コ」の後ろが見事な脱字っぷりですが、おそらく「ㇽ」が入る予定だったものと考えられます。

エベは食う物すなわち食糧で、コルは持つという意味。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.179 より引用)
はい。panke-epe-kor-pet で「川下の・食物(魚)・持っている・川」という意味になりますね。その意を和訳して「豊富」という地名にしてしまった、ということなのでしょう。

ちなみに、山田秀三さんは次のように記しています。

語義はイペ・コㇽ・ペツ「ipe-kor-pet 食物(魚)を・持つ・川」。やちの中の泥川で,乗って行った土地のタクシー運転手も余り魚はいませんがねという。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.140 より引用)
そうですね、epe は本来は ipe なので、確かにこう解釈したほうがわかりやすいです。ちなみに panke-epe-kor-pet は現在は「下エベコロベツ川」と呼ばれているのですが、panke があるなら penke(上)もある筈です。山田さんも

パンケ(下の)とペンケ(上の)の二つのエベコロベツ川が,豊富町の北見境の山から流れ出し,サロベツ原野の中を並んで西に流れてサロベツ本流に注いでいる。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.140 より引用)
と記されているのですが、地形図を見た限りでは「上エベコロベツ川」という川は見当たりません。この上エベコロベツ川について更科さんは

これに対して上エベコロベツは、ペンケエベコロベツ(上流にあるエベコルベツ) の上の部分だけを訳したもの。この川の中流に宗谷本線の徳満駅があるが、
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.179 より引用)
と記されているので、徳満駅の近くを流れている小さな川が「上エベコロベツ」だったのかもしれません。

幌延(ほろのべ)

poro-nup?
広い・野原
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
随分と飛ばしてしまったので、最後はあっさりと締めたい……ですね。幌延には宗谷本線の駅があり、かつては国鉄羽幌線が分岐していました。

では、今回は山田秀三さんの「北海道の地名」を見ていきましょうか。

 幌延は昭和初期までは「ほろのぶ」と振り仮名されていて,アイス語のポロ・ヌプ(poro-nup 大きい・野原) から来たと書かれて来たが,元来はどこの地名だったかはっきりしない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.140 より引用)
なるほど。「ポロヌㇷ゚」が「ほろのぶ」となり、漢字に引きずられて「ほろのべ」になった、といったところでしょうか。

大日本地名辞書(明治35年)は「幌延(ポロヌプ)。天塩市街の北二里の海岸にあり,天塩川屈折点に近し。今幌延村と称し天塩川下游右岸及び海浜沙流村を本村の所管と定めらる」とした。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.140-141 より引用)
うーん、これだと「ポロヌプ」は現在の場所よりも相当海よりだったことになりますね。現在のオトンルイ風力発電所のあるあたりになってしまいそうです。

この矛盾?について、山田秀三さんは次のように考えていたようです。

天塩川が西流して来て,海浜の後で左折する辺の海岸に明治の地図はポロヌㇷ゚(松
浦図もホロヌフ)と書いているが,余りに辺地の小地名である。松浦氏天塩日誌は天塩川を測り,サロベツ川口と,今の幌延市街との中間の処で「ホロヌツフ」と書いていて,そこにもポロヌㇷ゚があったらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.141 より引用)
むむ。ポロヌㇷ゚は二つあったのか、それとも時間を掛けてゆっくりと移動していたのか。ちょっと謎めいた感じがしますね。

あ。肝心の地名解を書くのを忘れてました。poro-nup で「広い・野原」です。確かにサロベツ原野を表すのにふさわしい地名ですね。

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2013年11月23日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (28) 東京 (1878/6/9)

それでは、今日も引き続き 1878/6/9 付けの「第五信」(本来は「第八信」)を見てみましょう。

仁王[浅草寺の開基]

浅草寺の本堂にやってきたイザベラは、本堂の中でさまざまな奉納物を目にします。

壁や大円柱にはあらゆる種類の奉納物がかけてある。その大部分は素朴な日本の絵である。ある画題は百人の死者を出した品川沖の汽船爆発で、このとき観音の御利益で命を助けられた人が寄贈したものである。多くの記念物は、ここで祈願して健康や財産をとりもどした人々が寄進したもので、命拾いをした船乗りのものもある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.58 より引用)
「百人の死者を出した品川沖の汽船爆発」とは何だろう……と思ったのですが、もしかしたら 1869 年に品川沖で炎上・沈没したという「武蔵艦」のことかも知れませんね。

そして、「日本奥地紀行」の初版には、次のような一節が付け加えられていたのでした。

原注 1:ある江戸の現地案内によれば、この浅草寺の開基は13世紀に帰せられ、その起源は一人の貴人が宮中で辱めを受け浪人、つまり仕える主君がいない人になり、極度の難局に陥ったので漁師になったことに遡る。ある日彼は隅田川に漁に出かけたが、投げ網を引き上げる度にかかったのは小さな観音の女神像が一つだけだった。どの地点に移ってみても同じ幸運が付き纏ったので、彼はその像を家に持ち帰り、それを宮に祀った。その後に続いた寄進は、江戸で最初の寺院としての威風を持つ寺院建造物の基盤を起こすこととなった。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.35 より引用)
13 世紀というと鎌倉時代ですから、「宮中で辱めを受け」というのは鎌倉でのことか、あるいは鶴岡八幡宮でのことかも知れませんね。もっとも当時は「浪人」という言葉も無かったような気がするので、やはりいろいろと混同があるのかも知れません。縁起物の説話の域を超えないと判断されて、普及版ではカットされたのかも知れません。

ここからは、普及版にも収められている文章に戻ります。

身内の病人の快癒を願って誓願したり祈願するため寄進した男の髻(たぶさ)や女の長い髪が幾十となくある。そのほか左手には、大きな鏡があって、きらびやかな金縁の中に郵便船チャイナ号の絵が収められている。これら各種の不調和な奉納物の上には、すばらしい仏の木彫りや壁画があって、鳩たちの安住の地となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.57-58 より引用)
ん、そうか。髪の毛を奉納するという文化?は西洋ではあまり見られないものなんでしょうかね。そしてその横に金縁の額で飾られた絵があるのでは、確かに「不調和」と言われても仕方がなさそうです。そして、「寺院に鳩」という図式は今も昔も変わらないということですね。

冥土のはかなさ

イザベラの写実的な描写が続きます。

入口近くには、大きな香炉がある。古い青銅作りで堂々たるもので、後脚で立ち上がった怪獣の彫物があり、その周囲には、浮き彫りとなって日本の十二支──鼠、牛、虎、兎、竜、蛇、馬、山羊、猿、鶏、犬、猪──が描かれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.58 より引用)
十二支が正しい順序できちんと記されていますね。それにしても、「後脚で立ち上がった怪獣」とは一体何なのでしょう。

さて、焼香あるいは祈願のスタイルは、現代日本のものと同じような違うような……。

香の煙が絶えず両端の穴からあがり、それを燃やし続けている黒い歯の女が、次々と参詣人から小銭を受け取る。参詣人は、お金を出すと祭壇の前に進んで祈願する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.58 より引用)
うーん、やっぱりどこか違うような気がする。具体的にどこがどう違うか書き表せないのが歯痒いところですが……。次にお寺に行くことがあれば、ちょっと気をつけてチェックしてみます。

この宗教は、教育のある者や、この道に入った者にとっては、道徳と哲学の体系をなすものだが、一般大衆にとっては偶像崇拝である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.58 より引用)
なかなか耳に痛い指摘ですが、確かにその通りであるような気がします。

異教徒の祈り

お堂の中には賽銭箱があり、参拝者は賽銭を投げ入れて手を合わせます。この所作はイザベラには次のように映ったようです。

そこでもまた彼らはお祈りをする──もし(ナンマイダという)わけも分がらぬ外国語の文句をただ繰り返すだけでお祈りと呼ばれてよいものならば。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.59 より引用)
確かに「南無阿弥陀仏」と唱えていても、その意味をどれだけ一般庶民が理解できていたかは怪しいものがありますね。意味もわからずに「ナンマンダブ」を繰り返す参拝者の姿は、イザベラにとっては違和感をおぼえるものだったようです。

彼らは頭を下げ、両手を上げてこすりあわせ、言葉をつぶやきながら数珠をつまぐり、両手を叩き、また頭を下げる。それが終わると外に出るか、あるいは別の仏の前に行って同じことを繰り返す。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.59 より引用)
「両手を叩き」というのは柏手でしょうか。江戸時代における神仏習合の実態が見て取れますね。「別の仏の前に行って同じことを繰り返す」というのも日本的な習俗のような気がします。

たいていお祈りは急いでなされる。つまらなくて長いおしゃべりの間にはさまれた単なる瞬間的間奏曲(インタールード)にすぎず、敬虔の素振りすらない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.59 より引用)
イザベラの眼には、参拝者のふるまいはお座なりなものに見えたようです。ここまでは、イザベラにとって日本人の信仰心は随分と軽薄なものに見えたのだな、と思わせる文章が続いていたのですが、一方で次のような文もありました。

しかし明らかに中には、ほんとうに悩み事をこの簡単な信心で解決しようという祈願者もいる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.59 より引用)
そして、この先に次の文章が続いていたのですが、何故か普及版ではバッサリとカットされてしまっていました。

 私は特に何度も何度も繰り返しひれ伏している洒落た洋服を着た 2 人の男に気がつきました。彼らは数分間祭壇の前に留まり、目を閉じて、低い声で祈りを捧げ、すべてが真剣でまじめであることを示していました。幾人かの女性たちは明らかに苦しみを抱えており、それは多分病気の人についてであると思われますが、彼女たちは苦しみを祈り、訴えていたのです。それはイギリスにおいての、苦悩する心から天にまします我らの父にまで昇りいたる祈りの真実に劣るものではありません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.37 より引用)
うん、何と言うんでしょうかね。日常行事としての「お詣り」と「救済への祈り」の間には明確な違いがあるとでも言ったらいいのか……。それを「敬虔では無い」と言われてしまえば全く返す言葉が出ないのですが、日本人の「信仰」というものの捉え方について、鋭い観察がなされていた、とでも言いましょうか。

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2013年11月22日金曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (145) 「寒くないですか?」

ペシ岬から眺める礼文島

鴛泊のランドマークとして有名な「ペシ岬」に登頂しました。頂上から眺める景色は……
なかなかのものです。これは西の方を撮影したものですが、どんよりとした雲の下に礼文島の姿も見えます。

羅針盤?

そして、何やら謎めいた羅針盤のようなものが……
こちらのオブジェ、単に方角を示しているだけではなくて……
「利尻島における風の呼び方」を示しているものです。北は「アイ」、西はそのまま「ニシ」、南は「クダリ」、そして東は「ヤマセ」なのだとか。面白いのが北東・北西・南西で、それぞれ北西が「タマ」、南西が「ヒカタ」、そして北東が「シモ」なのだそうです。

南西の「ヒカタ」は、アイヌ語の pikata との関連がありそうですね。他はアイヌ語っぽく無さそうですが……。

お賽銭?

そして、利尻島の形をした羅針盤の手前には……
なんですかね、これ。何やら石に字らしきものが彫ってあるのですが……(うまく読めない)。お賽銭らしきものが大量に置いてあります。

そして謎の穴

そして、こんな謎めいた穴まで。
何かが立っていたんでしょうけど、もはや何があったのか想像すらできません。しかも穴は二つもありますし。

寒くないですか?

灯台に向かう下り坂があります。
そして、振り返ると先客の姿が。
……実は、このカラスではなく、本当に先に登頂されていた方がいらっしゃったのでした。同じように観光で来られていた方だったようです。これも何かの縁ということで、手にされていたカメラでご本人を含めて記念に写真を撮影させていただきました。

そして、一連の写真からは窺い知ることができませんが、ペシ岬の頂上はすごい風で、体感温度は 20 度を下回っていたような感じでした。そんなに寒いとは想像もできずにふつーに長袖(半袖だったかも)シャツ姿で登頂してしまって、当然の如くとっても寒かったのですが、先に登頂された方(二十代くらい?)から「大丈夫ですか? 寒くないですか?」と声をかけられてしまいました(汗)。

いや、確かに寒かったんですけどね……。

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