2013年11月23日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (28) 東京 (1878/6/9)

それでは、今日も引き続き 1878/6/9 付けの「第五信」(本来は「第八信」)を見てみましょう。

仁王[浅草寺の開基]

浅草寺の本堂にやってきたイザベラは、本堂の中でさまざまな奉納物を目にします。

壁や大円柱にはあらゆる種類の奉納物がかけてある。その大部分は素朴な日本の絵である。ある画題は百人の死者を出した品川沖の汽船爆発で、このとき観音の御利益で命を助けられた人が寄贈したものである。多くの記念物は、ここで祈願して健康や財産をとりもどした人々が寄進したもので、命拾いをした船乗りのものもある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.58 より引用)
「百人の死者を出した品川沖の汽船爆発」とは何だろう……と思ったのですが、もしかしたら 1869 年に品川沖で炎上・沈没したという「武蔵艦」のことかも知れませんね。

そして、「日本奥地紀行」の初版には、次のような一節が付け加えられていたのでした。

原注 1:ある江戸の現地案内によれば、この浅草寺の開基は13世紀に帰せられ、その起源は一人の貴人が宮中で辱めを受け浪人、つまり仕える主君がいない人になり、極度の難局に陥ったので漁師になったことに遡る。ある日彼は隅田川に漁に出かけたが、投げ網を引き上げる度にかかったのは小さな観音の女神像が一つだけだった。どの地点に移ってみても同じ幸運が付き纏ったので、彼はその像を家に持ち帰り、それを宮に祀った。その後に続いた寄進は、江戸で最初の寺院としての威風を持つ寺院建造物の基盤を起こすこととなった。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.35 より引用)
13 世紀というと鎌倉時代ですから、「宮中で辱めを受け」というのは鎌倉でのことか、あるいは鶴岡八幡宮でのことかも知れませんね。もっとも当時は「浪人」という言葉も無かったような気がするので、やはりいろいろと混同があるのかも知れません。縁起物の説話の域を超えないと判断されて、普及版ではカットされたのかも知れません。

ここからは、普及版にも収められている文章に戻ります。

身内の病人の快癒を願って誓願したり祈願するため寄進した男の髻(たぶさ)や女の長い髪が幾十となくある。そのほか左手には、大きな鏡があって、きらびやかな金縁の中に郵便船チャイナ号の絵が収められている。これら各種の不調和な奉納物の上には、すばらしい仏の木彫りや壁画があって、鳩たちの安住の地となっている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.57-58 より引用)
ん、そうか。髪の毛を奉納するという文化?は西洋ではあまり見られないものなんでしょうかね。そしてその横に金縁の額で飾られた絵があるのでは、確かに「不調和」と言われても仕方がなさそうです。そして、「寺院に鳩」という図式は今も昔も変わらないということですね。

冥土のはかなさ

イザベラの写実的な描写が続きます。

入口近くには、大きな香炉がある。古い青銅作りで堂々たるもので、後脚で立ち上がった怪獣の彫物があり、その周囲には、浮き彫りとなって日本の十二支──鼠、牛、虎、兎、竜、蛇、馬、山羊、猿、鶏、犬、猪──が描かれている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.58 より引用)
十二支が正しい順序できちんと記されていますね。それにしても、「後脚で立ち上がった怪獣」とは一体何なのでしょう。

さて、焼香あるいは祈願のスタイルは、現代日本のものと同じような違うような……。

香の煙が絶えず両端の穴からあがり、それを燃やし続けている黒い歯の女が、次々と参詣人から小銭を受け取る。参詣人は、お金を出すと祭壇の前に進んで祈願する。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.58 より引用)
うーん、やっぱりどこか違うような気がする。具体的にどこがどう違うか書き表せないのが歯痒いところですが……。次にお寺に行くことがあれば、ちょっと気をつけてチェックしてみます。

この宗教は、教育のある者や、この道に入った者にとっては、道徳と哲学の体系をなすものだが、一般大衆にとっては偶像崇拝である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.58 より引用)
なかなか耳に痛い指摘ですが、確かにその通りであるような気がします。

異教徒の祈り

お堂の中には賽銭箱があり、参拝者は賽銭を投げ入れて手を合わせます。この所作はイザベラには次のように映ったようです。

そこでもまた彼らはお祈りをする──もし(ナンマイダという)わけも分がらぬ外国語の文句をただ繰り返すだけでお祈りと呼ばれてよいものならば。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.59 より引用)
確かに「南無阿弥陀仏」と唱えていても、その意味をどれだけ一般庶民が理解できていたかは怪しいものがありますね。意味もわからずに「ナンマンダブ」を繰り返す参拝者の姿は、イザベラにとっては違和感をおぼえるものだったようです。

彼らは頭を下げ、両手を上げてこすりあわせ、言葉をつぶやきながら数珠をつまぐり、両手を叩き、また頭を下げる。それが終わると外に出るか、あるいは別の仏の前に行って同じことを繰り返す。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.59 より引用)
「両手を叩き」というのは柏手でしょうか。江戸時代における神仏習合の実態が見て取れますね。「別の仏の前に行って同じことを繰り返す」というのも日本的な習俗のような気がします。

たいていお祈りは急いでなされる。つまらなくて長いおしゃべりの間にはさまれた単なる瞬間的間奏曲(インタールード)にすぎず、敬虔の素振りすらない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.59 より引用)
イザベラの眼には、参拝者のふるまいはお座なりなものに見えたようです。ここまでは、イザベラにとって日本人の信仰心は随分と軽薄なものに見えたのだな、と思わせる文章が続いていたのですが、一方で次のような文もありました。

しかし明らかに中には、ほんとうに悩み事をこの簡単な信心で解決しようという祈願者もいる。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.59 より引用)
そして、この先に次の文章が続いていたのですが、何故か普及版ではバッサリとカットされてしまっていました。

 私は特に何度も何度も繰り返しひれ伏している洒落た洋服を着た 2 人の男に気がつきました。彼らは数分間祭壇の前に留まり、目を閉じて、低い声で祈りを捧げ、すべてが真剣でまじめであることを示していました。幾人かの女性たちは明らかに苦しみを抱えており、それは多分病気の人についてであると思われますが、彼女たちは苦しみを祈り、訴えていたのです。それはイギリスにおいての、苦悩する心から天にまします我らの父にまで昇りいたる祈りの真実に劣るものではありません。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.37 より引用)
うん、何と言うんでしょうかね。日常行事としての「お詣り」と「救済への祈り」の間には明確な違いがあるとでも言ったらいいのか……。それを「敬虔では無い」と言われてしまえば全く返す言葉が出ないのですが、日本人の「信仰」というものの捉え方について、鋭い観察がなされていた、とでも言いましょうか。

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