2013年11月4日月曜日

「日本奥地紀行」を読む (27) 東京 (1878/6/9)

気がつけば、一年以上のご無沙汰となってしまいました。このままだと一生終わらないので、少しずつ再開したいと思います。1878/6/9 付けの「第五信」(本来は「第八信」)からです。

人力車の旅

イザベラの浅草見物の話が続きます。

 チェンバレン氏と私は人力車(クルマ)に乗り、お仕着せを着た三人の車夫がそれを引いて、公使館から浅草まで三マイル、雑踏する町の通りを急いだ。浅草は昔、村であったが、今ではこの巨大な都市に統合されている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.54 より引用)
「この巨大な都市」とは、即ち「東京」のことですね。日本で最初の地下鉄ができたところではありますが、確かに東京の中心とは言いがたい場所ではあります。

クルマは吾妻橋に向かって広い通りを進んだ。吾妻橋は東京の数少ない石橋の一つで、東京の東西を結ぶ。東の東京は興味のない地域で、多くの堀割があり、倉庫や材木置場や、下屋敷が多い。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.54 より引用)
「吾妻橋」は隅田川にかかる橋ですから、イザベラの言う「東の東京」は墨田区のあたりでしょうかね。今ではスカイツリーのお膝元の下町といった印象ですが、当時は今の新木場のあたりに近い雰囲気だったのかも知れません。

この浅草においてこそ、東京のほんとうの生活が見られる。というのは、多くの人々が参詣する寺院の近くには、いつも数多くの遊び場所──罪のないものや悪いもの──がある。この寺の近辺には、食堂や茶屋、芝居小屋が立ち並び、踊ったり歌ったりする芸妓のいる遊里もある。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.54 より引用)
今で言う「仲見世」であったり、あるいは「浅草花やしき」のあたりでしょうか。浅草は、21 世紀の現在においても国の内外を問わず人気のスポットですが、イザベラが見た 19 世紀の浅草と、本質的な部分はあまり変わっていないということなのかも知れません。

年中祭り

さて、人力車に揺られていたイザベラは、浅草寺に到着しました。

浅草では毎日が祭日である。この寺は偉大な諸仏の中で最も人気のある仏を祀ったもので、最も人気のある霊場である。仏教信者でも、神道信者でも、あるいはキリスト教信者でも、この都を初めて訪れるものは、かならずこのお寺に参詣し、その魅力的な売店で品物を買うのである。私もその例外ではなく、花火の束を数個買った。五十本で二銭《一ペンス》である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.55 より引用)
「偉大な諸仏の中で最も人気のある仏」とは一体何だろう? と思ってしまいますが、要するに「観音様」ということのようです。「仏教信者でも、神道信者でも、あるいはキリスト教信者でも、この都を初めて訪れるものは、かならずこのお寺に参詣し」というのは、日本人の緩い宗教観を表しているようでもあり、興味深いです。

仁王

イザベラは、(おそらく)雷門をくぐって、仲見世を通り、仁王門(現在の宝蔵門)にやってきました。

山門の下の両側には仁王すなわち二人の王がいる。これは巨大な像で、ゆるやかな長い服をつけている。一方は赤色で口を開けており、中国哲学の男性原理である陽を象徴している。もう一方は緑色で、口を固く閉じており、女性原理である陰を象徴する。ものすごい形相をして眼は突き出し、顔や姿はねじ曲がり、極度に誇張された激動の身振りを示している。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.56 より引用)
仁王の魁偉な姿に微かな戸惑いを覚えつつも、冷静にその分析を行おうとするのは、イザベラの好奇心のなせる業だと思うのですが、その一方でイザベラがこの場においてはアウトサイダーであることを如実に示しているようでもあって面白いですね。その場の多くの人々にとっては、「仁王様は仁王様」であって、それ以上の存在では無かったような気がするからです。

 この山門を通ると寺の本庭に入り、寺院そのものの前面に出る。建物は堂々たる高さと大きさのもので、にぶい赤色をしており、その壮大な屋根には重い灰黒色の瓦が敷いてある。その流れるような曲線は、雄大さのみならず優美な感じを与える。梁や柱は堅固で大きい。しかし日本の神社にも仏閣にも共通することだが、建物はすべて木造である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.56-57 より引用)
これは本堂のことですね。確かに日本の寺社仏閣はすべて木造でした。現代のようにデジカメで簡単に写真を撮影できたわけではなかった時代においては、こういった的確で写実的な描写は、その姿を読者に伝える上で随分と役に立ったことでしょうね。

間隔が狭くて急な真鍮張りの幅広い階段を上ると本堂の入口に至る。ここには多くの円柱が立っていて、非常に高い天井を支えている。そして天井から、一〇フィートも長さのある提灯が多くさげられている。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.57 より引用)
あれ……? この「大提灯」の描写は「雷門」のもののように思えますね。イザベラの文章を信じるならば、当時は本堂に提灯が掲げられていたことになります。これは一体……と思ったのですが、Wikipedia の「雷門」に次のような記述を見つけました。

山門はしばしば火災により消失しており、江戸時代だけでも2度も建て替えられている。最後の火災は1866年(慶応元年12月14日)であり、以後、100年近く恒久的な建築物としての山門は姿を消す。
明治年間から太平洋戦争後にかけては、さまざまな形態の仮設の雷門が登場したと伝えられる。いずれも博覧会の開催や戦勝記念など、その時々のイベント的な要素が強く、素材は鉄骨やコンクリートなどの構造もあったほか、大きさもさまざまであった。1904年の日露戦争終結時には、凱旋門として雷門が建てられている。
(Wikipedia 日本語版「雷門」より引用)
ふむふむ、そうだったのですね。雷門は常にそこにあった、という発想自体が間違っていたようです。イザベラが浅草寺を訪れたのは 1878 年のことですから、慶応元年に焼け落ちた後だったのでした。

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