(この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである)
苗太路(なえふとろ)
(典拠あり、類型あり)
稚内市の、猿払村に程近いところを流れている川の名前です。上苗太路川と下苗太路川があり、下苗太路川と、その支流の「下苗太路一号川」が、ちょうど稚内市と猿払村の境界線上を流れています。何やらとらえどころの無い地名ですが、一体どんな由来があるのでしょう……。今回は、山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょうか。
稚内市宗谷地区の東海岸最南の川で,兄弟のようなこの二川であるが,南の下内太路川の辺が稚内市と猿払村との境になっている。元来この二川は海浜で合流していたのであるが,今は下内太路の方が本流として扱われている。永田地名解には次のように書かれていた。
① エレㇰトゥッペ 咽川〔上内太路川〕
② イチャヌッペッ 鱒上る川〔下内太路川〕
③ ナイ ウトゥロ 川合の山。イチャヌペッとエレクトッペの間にある山。又ナイウトゥルシペと云ふ。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.166 より引用)
うーむ。そもそも現在の地名からして違っていますね。地形図で見ると「苗太路」(なえふとろ)なのですが、山田秀三さんは「内太路」(ないふとろ)としています。続きを見てみましょう。①の意はよく分からない。レクッ(rekut)は喉,レクチ(rekuchi)では「その喉」。レクチ・ウン(rekuchi-un)で「何かが喉につまってむせる」ことをいう。似た形なので川口に砂がつまって川がむせるようになるという意をいった何かの言葉だったか。なお松浦図ではエレクトヘツと書かれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.166 より引用)
えーと、音からは e-rekut-un-pet あたりに思えてきますが、これだと文法的にちとおかしい感じがしますね。こちらはちと後回しにして……②はイチャニウ・オッ・ペッ(ichaniu-ot-pet 鱒が・多くいる・川)ぐらいの意だったろうか。土地の人に聞くと内太路は鱒ややまべが無暗にいる川であるが,いまは種川として,禁漁の川になっているのだという。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.166-167 より引用)
ふむふむ。ichan だと「鮭・鱒の産卵穴」ですが、ichaniu で「鱒」そのものを表すということでしょうか。ichaniu-ot-pet なのか、あるいは ot が略されて ichaniu-pet と呼ばれていたのかもしれません。③ はナイ・ウトゥㇽ(nai-utur 川の・間),nai-utur-ush-pe(川の・間に・ある・処)の意。この二川の名がペッで呼ばれているのに,その間の土地をナイの間としている点が気にかかるが,地名の残った時代差の関係ででもあったのか。とにかく内太路はそれに当て字をした地名。字にひかれて「ないふとろ」となった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.167 より引用)
そして、「内太路」が「苗太路」になり、「ないふとろ」は「なえふとろ」になってしまった、ということなのでしょうか。それはさておき、「苗太路」は nay-utur-us-pe で「川・間・ある・ところ」だった、と見て良さそうです。もともとの両河川の名前(「エレㇰトゥッペ」と「イチャヌッペッ」)が、発音の難しさからかいつしか失われ、「両河川の間」という地名が両河川の名前として転用されたことになりますね。何とも不思議な主客転倒もあったものです。ちなみに……
地元では稚内市の上苗太路(エレクト゚ッペ) を「あっち苗太路」、猿払村の下苗太路(イチャヌッペッ)を「こっち苗太路」と呼んでいる。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.192 より引用)
こういった「通称」が、やがて公式地名として使用されるようになった、といった経緯があったのでしょうね。萌間山(もいまやま)
(典拠あり、類型あり)
猿払村から宗谷岬に向かう途中、左手にある山の名前です。どことなく「藻岩山」に語感が似ていますが、さて実際の所はどうでしょう……? 今回も「北海道の地名」から。萌間山は時前川下流の北岸にある美しい独立丘で,特に峰岡部落の方から見ると,全くトゥキ(tuki 酒椀)を伏せたような姿である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.166 より引用)
ふむふむ。このあたりには「峰岡」という地名もあるのですね。確かに国道 238 号には「峰岡橋」という橋があります。永田地名解は「モイワ。小山。此辺のアイヌはモイマという。元名はトゥキ・モイワなり。杯の如き小山の義」,また「トウキマイ。元名トゥキモイワなり。或は云ふ,トゥーキ・オマイにして杯を忘れ置きたる処」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.166 より引用)
あ、やっぱり「藻岩山」と似たような語源だったのですね。tuki-mo-iwa で「杯・小さい・山」だったのが、tuki が略され iwa が ima に転訛して「モイマ」となった、ということのようです。ちなみに、消えてしまった tuki の行方ですが、近くを流れる「時前川」に名残があるようです。tuki-oma-i で「杯・そこにある・所」とのこと。集落の名前も「時前」だったそうなのですが、「峰岡」に改称されて現在に至る、とのこと。そういうわけで、全てが綺麗につながったような……。ちょっと強引ですが(汗)。
鬼切別川(おにきりべつがわ)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
宗谷岬の近くを流れる長さ 1~2 km 程度の短い川なのですが、なぜか旧記にきちんと取りあげられていることが多い、不思議な川です。というわけで、「北海道の地名」を見てみましょう。
大岬部落の南にある川の名であるが語形,語義とも不明。永田地名解はここでも「onikki-ush-pet ?」としているだけである。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.165 より引用)
おっ、永田地名解の伝家の宝刀「?」が出ました!松浦氏廻浦日記では「ヲニツチウシヘ」,同氏再航蝦夷日誌では「ヲニキルンヘ」,松浦図では「ヲニキルシペ」といろいろな形になっているので,うっかり言葉も当てられない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.165 より引用)
あらららら。下手に記録が残っているおかげで、余計に解釈に困ってしまうパターンのようですね。あるいはオ・ニクㇽ・ウシ・ぺ「o-nikur-ush-pe 川尻に・林が・ある・もの(川)」ぐらいの名であったものか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.165 より引用)
ふむふむ。o-nikur-us-pe で「川尻に・林・ある・もの」ですか。これはなかなかありそうな形ですね。猿払村の「鬼志別」とも似た形ですね。ちなみに、更科源蔵さんは次のように記していました。
明治中期の五万分の地図にはオニキㇰ・ウシュペツとあり、永田方正氏のものとは少しちがっている。オは川尻、ニは木、キクはたたくの意味で、ウシュはいつもする。または沢山あるで、ペツは川、これをそのまま訳すと、川口で木をいつもたたく川となるがおかしい。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.195 より引用)
はい。これは確かにおかしいですね……。www.bojan.net
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