2013年6月30日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (120) 「茶志内・奈井江・神威(歌志内市)」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである)

茶志内(ちゃしない)

chasi-(un-)nay?
砦(・ある)・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
アイヌ語で「チャシ」と言えば「砦」のことですから、「チャシナイ」は「砦・川」と解するのがごく自然……なのですが。山田秀三さんの「北海道の地名」を見ていきましょうか。

従来の貝は区々である。永田地名解は「チャㇱ・ナイ。早川。トク土人云,チャシはホユプに同じ。走るの義。故に早川の義なりと,コトニ土人又一云ふ。チヤシは柴なり,此辺小木多し,故にチヤシナイと云ふ。二説並に通ず」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.45 より引用)
ふむふむ。確かに chas-nay で「走る・川」と解せますね。また、cha あるいは has には「柴」という意味がありますから、cha-has-nay で「柴・柴・川」というのもアリなのかも知れません。うーむ……。

しかも、まだ続きがあります。

 北海道駅名の起源昭和25年版は「走る川」説。29年版は「チャㇽセナイ(滝をなして流れおちる川)か,あるいはチャシュンナイ(砦のある川)の転訛と考えられる」と別説。48年版には「この付近にはチャㇽセナイのような川は見あたらない」と訂正が書かれた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.45 より引用)
ちなみに、更科源蔵さんも「チャルセ・ナイ」には否定的で、「チャシ・ウン・ナイ」ではないか、と考えられていたようです。

再び「北海道の地名」に戻ります。

 ふつうならチャシ・ナイ(砦・川)と解されるのが自然な名なのであるが,その辺にチャシの伝承が残っていなかったのでこのように各種の解が考えられたのであろうか。なお研究問題が残っている地名である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.45-46 より引用)
というわけで、何故に chasi-(un-)nay と考えられなかったか、その理由が記されているのですが、ここで久しぶりに我らが「角川──」(略──)を見てみると……

松浦武四郎「丁巳日誌」には「チヤシナイ,右の方小川。此処にむかし夷人の貴人有し処にて,チヤシは城の事也。むかし城の有しと云事」とある。「夷人の貴人有し処」を教示したアイヌは,トックアイヌの乙名(首長)らであるが,住んでいたのはいつか,チャシがどこであったかは不明。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.869 より引用)
なぁんだ、やっぱりチャシの伝承があるじゃないですか(笑)。しかも、インフォーマントの「トックアイヌの乙名」って、「走る川」説を永田翁に伝えた「トク土人」と関係のある人物かもしれないわけで……。いやいや、地名の伝承というものも難しいものですね。

ちなみに、「トック」は「徳富」、すなわち現在の新十津川のあたりのようです。

奈井江(ないえ)

{nay-e}?
{その川}
nay-e??
川・頭(水源)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠未確認、類型あり)
ラリー・ジャパンが懐かしいですが……。

では、今回も「北海道の地名」から。

 奈井江町は南は美唄市,北は砂川市と上砂川町で,名のもとになった奈井江川が黄流している。古くは奈江村,後砂川村と改称。昭和19年分村して奈井江村となった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.46 より引用)
ふむふむ。そして現在は「奈井江砂川 IC」があるわけですから、離れたりくっついたりといった印象がありますね(IC はほぼ全体が奈井江町に属するようなので、何故「砂川」がつくのか少々不思議ではありますが)。続きを見てみましょう。

永田地名解は「ナエイ(naei,nae)。谷川。西岸高き川をナエイと云ふ。今奈井江と云ふは誤る。上川土人は谷をナエと云ひ,川をナイと云ふ」と興味ある説を書いたが,どうもよく分からない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.46 より引用)
確かに……。どうにも良くわからないですね。結局、山田さんも「nay の処属形(ママ)naye(その川)が地名に残ったものであったろうか」と、すっきりしない解でまとめてしまっていました。nay-e で「川・その」となりますね。

なお、明治時代に編纂された吉田東伍の「大日本地名辞書」には、「奈井江」ではなく「奈江井」と記録されています。

神威(かもい)

kamuy-sinrit-oma-p?
カムイ・先祖・いる・処
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
歌志内市内の地名です。「かむい」じゃなくて「かもい」なので注意が必要ですね。ちなみに道東の清里町にも「神威」と書いて「かもい」と読ませる地名があります。

地名の由来は……まぁ、kamuy であることには違いないんでしょうけど……。とりあえず「角川──」(略──)を見てみましょうか。

地名は,アイヌ語のカムイシンレルマップに由来するとも,またカムイ岳に由来するともいう。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.414 より引用)
おっかしーなー。歌志内にある「神威岳」は「かもいだけ」と読むはずなんですけどねぇ。それはさておき……カムイシンレルマップですか。えーと……。

整いました!(違う)。kamuy-sinrit-oma-p で「カムイ・先祖・いる・処」でしょうか。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2013年6月29日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (119) 「光珠内・美唄・産化美唄川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである)

光珠内(こうしゅない)

ka-us-nay
罠・多くある・川
(典拠あり、類型あり)
美唄市南部の地名で、JR 函館本線の駅があります。道央道には「光珠内トンネル」もありますね。さて、その由来ですが……。更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」から。

 高志内とも書いたところで、語源はカー・ウㇱ・ナイで罠をいつもかける沢の意であるといい、現在峰延駅付近にある川の名からでたものだという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.108 より引用)
ka-us-nay で「罠・多くある・川」といった意味なのですね。続きも見ておきましょう。

カーというのは元来弓の弦とか、ひっくぐしの罠などをいうので、鹿をとるためのカーもあり、鶴などをとるためのカーもあるが、光珠内はおそらく鹿や熊をとるための罠をかけた所と思われる。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.108 より引用)
ふむふむ。個人的に「カー」と言えばディクスン・カーですが……(全然関係ない)。

……気を取り直して。地名で良く見かける「罠」は ku(仕掛け弓)ですが、ka は「仕掛け縄」のような感じなのかもしれませんね。

美唄(びばい)

pipa-o-i
カラス貝・多くある・所
(典拠あり、類型あり)
さぁ、最近無駄に文字数が多くなっているので、ここでシャキっと締めた文章を……書きたいものですが……(いきなり弱気)。

「美唄」の語源はアイヌ語の pipa-o-i で、意味は「カラス貝・多くある・所」なのでしょうね。折角なので、山田秀三さんの「北海道の地名」も見てみましょうか。

初めは市来知(三笠市)の管轄下であったが,明治 28 年沼貝村の名で独立,大正 15 年美唄町と改称,昭和 25 年市制を施行した(沼貝はピパイの訳名)。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.45 より引用)
この経緯は面白いですね。もともとアイヌ語和訳地名だったのを、アイヌ語に漢字を当てた地名に直したということになります。そして、その際に pipa(カラス貝)の「貝」の字を「唄」の形で残した……と。なかなか巧いことを考えたものですね。

 ここは古くからのピパイで,元来は美唄川の名であったろう。永田地名解はピパ・イ(沼貝川)と訳したが,イという語尾は名詞の後につかないので説明としては変だ。松浦図ではヒハヲマナイ(pipa-oma-nai からす貝・ある川)で自然な形である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.45 より引用)
ふむふむ。全く同感です。

また駅名の起源昭和 29 年版は美唄に近い形を考えてかピパ・オ・イ(からす貝・多い・処)の転訛と書いた。母音が二つ続くとその一つを落として呼ぶことが多いのでピパイとなる。巧い説である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.45 より引用)
omao の使い分けはなかなか難しいものがあるように感じますが、日本語にしてしまえばどちらも似たような意味のような気も……。そして気がつけば omao も略されて現在に至る……と。そう考えるとちょっと切ないですね(笑)。

産化美唄川(さんかびばいがわ)

sanke-{pipa-o-i}
前へ出す・{美唄川}
(典拠あり、類型あり)
名前の通り、美唄川の支流ですが、とても変わった名前の川なので取りあげてみました。答合わせの前に、「北海道の地名」を見ておきましょう。

 国道 12 号線を通ると,茶志内駅のすぐ南を産化美唄川(旧名はサンケピパイ),それと美唄川の間を奔美唄川(旧名ポンピパイ)が横切っている。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.45 より引用)
はい。やはりと言うべきか、「産化」は元々は「サンケ」だったようです。sanke と言えば「三毛別」という地名もありますが、「産化美唄」は sanke-pipai で「前へ出す・美唄川」という意味だ……となりますね。何を出すのかは例によって謎ですが、土砂か、あるいは雪解け水か……。もしかしたら鉄砲水かもしれません。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2013年6月28日金曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (49) 「我、流転ス」

ここまでのあらすじ

朱鞠内から蕗の台まで、道道 528 号で北上を目指すも、見事に「通行止」を喰らってしまったので……
今度は母子里から西に、蕗の台を目指します。

たとえ人影が皆無でも

昔、と言ってもそれほど大昔ではないのですが、この辺りには JR 深名線が走っていました。この深名線は大赤字だったにもかかわらず、しばらくの間、「並行する道路が整備されていない」という素晴らしい理由で、廃止が猶予されていました。

その後、名母トンネルなどが整備された結果、深名線は 1995 年に廃止されたのですが、これはつまり、蕗の台のあたりにも道路が整備された、ということを示唆しています。たとえそこに人影が皆無であっても……。
てなことを考えながら、蕗の台に向かいます。ここにも交通遮断ゲートがありますが、もちろん「通行止」ではありません。

道路は、濃密な木立の中を西へと延びています。

道道 528 号線ふたたび

およそ 10 分ほど走ったところで、案内板が見えてきました。
またしても逆光なのですが、えーっと……
ここを左に行けば「朱鞠内」に行ける……というのですが、これが先ほどの「道道 528 号」のことでしょうね。どんな道だろう……と思って見てみたところ、
こっ、これは……(汗)。さすがに想像のちょいと斜め上を行っていました。そして、どこかで見かけたこんな案内も……
うむ。やはりこれが道道 528 号のようです。ここから蕗の台までは 0.5 km も無かった、ということは後で知ったのですが、さすがにこの道を行く勇気は持ち合わせてなかったですね……。

うちの車はロードクリアランスがあまり大きく無いのです。ですから、バンパーを擦ったり、最悪の場合は亀の子状態になって自走不能になる可能性も……。そんな車に乗ってるからだ、と言われたら反論のしようも無いのですが。

どちらへ行っても行き止まり

この先、道道 688 号線は幌加内町から遠別町に入ったところでプッツリと切れています(現在建設中とのこと)。また、途中で分岐する道道 964 号線も「行き止まり」の道道です(先に林道はあるようですが)。
行き止まりまで行ってみたい気持ちもやまやまなのですが、既に 13 時 28 分。この先 200 km 強の道のりを 4 時間半で走りきらないといけません。

というわけで

……心を鬼に変え(言い過ぎ)、引き返すことにしたのでした。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2013年6月27日木曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (48) 「我、転進ス」

朱鞠内から蕗の台へ

朱鞠内湖のあたりを通り過ぎてから「朱鞠内湖を一周しよう!」と決心し(←)、およそ 30 分ほどかけて幌加内町朱鞠内まで戻ってきました。
道道 528 号も、朱鞠内湖畔に抜ける道は良く整備されているのですが、その先はご覧の通り。
道幅は充分なのですが、それほどメンテナンスされていないようにも見えます。

通行止!

機嫌良く「蕗の台」に向かってドライブしていると……
あれ? あーっ!
なーんと、この先は見事に「通行止」だったのでした。しかもご覧の通り、立派な遮断機つきで……。これでは仕方がありません。引き返すしか無いですね。

せめて、「雨竜第二ダムから先は通行止」くらいは案内があってもいいのに……と思ったのですが、もしかしたら通行止めが常態化しているという話なのかもしれませんね。

同じ道で母子里へ

ということで……
出直します(汗)。朱鞠内湖一周が不可能だと判明した以上、こうなっては意地でも蕗の台までは行っておきたいところです(なんでだ)。

再び、国道 275 号で母子里に向かいます。今日、この道を通るのはこれで三回目です(汗)。

今度こそ蕗の台へ!

さぁ、母子里から蕗の台に至る道道 688 号に入りました。
激しく逆光ですが、補正するとこんな感じです。
蕗の台までは 12 km。およそ 20 分もあれば辿り着ける計算です。しかし、この時既に 13:18 でしたから、約 200 km 先の稚内のホテルに 4 時間ちょいで移動しないといけなくなります。でも、蕗の台に行けるのは今しか無いかもしれませんし。

道路未開通のため

こんな看板もありましたが、これはもちろん織り込み済みです。
「通行止」の標識が描かれていますが、実情は「道路未開通のため」に他ならないですからね。母子里から遠別に抜ける道があればとても便利なんですが、交通量はあまり見込めないだろうなぁ……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2013年6月26日水曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (47) 「我、逡巡ス」

我、逡巡ス

先日から何度もご覧いただいているこの地図なのですが……
地図の右側、「弥生」という地名のところに「ゴール」のマークがあるのですが、このあたりをドライブしながら、内心、いろいろと葛藤していたのでした。

朱鞠内から蕗の台経由で母子里に?

その葛藤とは何? という話ですが……。まずはこちらの写真から。
これは、地図の (2) の地点(朱鞠内)での案内板です。まっすぐ(即ち朱鞠内湖の西側)を行けば、「蕗の台」に行けるように読み取れます。続いてはこちら。
これは、(4) 地点(母子里)の案内板なのですが、母子里から西に行けば、「蕗の台」に行けると読み取れます。

つまり。朱鞠内から蕗の台経由で母子里に抜けることもできたのではないか、と後悔していたわけです。このあたりは遅くまで雪が残っているので、今の時期で無いと通過は困難でしょう。このチャンスを逃すと次は無いかもよ? と思ったわけです。

しかし、この日はどうしても 18 時までにホテルにチェックインしないといけません。母子里から稚内までは約 217 km。少なくとも 4 時間は見ないと危険です。そしてこの時点で 12:30 でした。……まだ 1 時間強の余裕がある計算です。

朱鞠内に戻ることを決心しました。

蕗の台へ!

およそ 30 分で朱鞠内に戻ってきました。ここからは、道道 528 号を通って蕗の台に向かいます。
この先には木橋があるのですね。「湖月橋」「湖畔橋」という、何とも風情のあるネーミングです。「重量制限」と書かれると結構びびってしまいますが、うちの車は 1.5 t ですから、総重量 14 t にはほど遠いので全く問題無いです。
この道は、「雨竜第一ダム」や「朱鞠内道立自然公園」へのアクセスロードなので、ご覧の通り、とても快適な道です。
そして、ダムや自然公園に向かう人は、ここで右折です。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2013年6月25日火曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (46) 「町境の長いトンネルを抜けると、まだ続きがあった」

町境の長いトンネルを抜けると

「名寄」と幌加内町「母子里」を結ぶ「名母トンネル」を抜けると……
まだ続きがありました。
そして、覆道を抜けると……
名寄市に入ります。せっかくなので、カントリーサインの(やや)アップも。

ドリドリしたいのでしょうか

ここからは、標高差約 250 m を一気に駆け下りていきます。
山に沿って降りて行くので、どうしても北海道らしからぬ急カーブが多くなるのですが、それを良いことに? 路面にはタイヤの跡がこんなに……
そして麓のチェーン脱着場の前もこの体たらく。
どうやら、ここと、トンネルを出たすぐのところにある「みずほパーキングエリア」の間を行ったり来たりしている車がいるようです。公道での危険走行はいけませんよー!

そして葛藤は最高潮に

さて、名寄市の西部にやってきたのですが……
ここで、ふと思い出したのがこの地図。何の変哲も無いルートなのですが、このルートを選んだことに随分と葛藤していたのでした。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2013年6月24日月曜日

利尻・礼文の旅 2012/夏 (45) 「極寒の地・母子里」

朱鞠内湖東岸から名寄へ

朱鞠内湖の東岸を走る国道 275 号を抜けて、名寄へ行こう……という話です。
はい。何故か詳しい地図もご用意しました。

国道 275 号をゆく

晴れ渡る空の下、とても快適な道が続きます。
右手……見えませんが……には牧草地が広がっています。「湖南牧場」と言うみたいです。
左手には……朱鞠内湖が見えます。

極寒の地・母子里

およそ 10 分ほどで「母子里」(もしり)に到着です。
この「母子里」という場所は、昭和 53 年 2 月 17 日に「マイナス 41.2 度」を記録したことがある、日本一寒い場所としても知られています。

右折して名寄へ

左に曲がれば「蕗の台」へ行けるようなのですが、右に曲がって名寄方面を目指します。
「母子里神社」という神社があるようですね。北海道は明治期に開拓が始まったところが多いので、お寺以上に神社が多い印象があります。

名母トンネル

およそ 4~5 分で「名母トンネル」です。
「名母トンネル」(めいぼ──)が見えてきました。
ご丁寧に、トンネルの手前のシェルター、そしてトンネルを出た先の覆道の長さまで書かれています。併せて 2,011 m ということですね。

では、トンネルに入ります。
うわ……。凄まじくピンボケですね……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2013年6月23日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (118) 「市来知・三笠・幾春別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである)

市来知(いちきしり)

i-chikir-us-i?
アレ・足・多くある・所
(? = 典拠あり、類型未確認)
道央道・岩見沢 SA の東のあたりを流れる川の名前です。幾春別川の支流ですね。市来知川から離れた三笠市内に「市来知神社」があるようで、ちょっと混乱してしまいますが……。というわけで、山田秀三さんの「北海道の地名」から。

 市来知川は三笠市と岩見沢市の境を流れる川の名であるが,市来知という土地はそこから東の地域だったか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.43 より引用)
ふむ。ちょっと謎が残る感じですが、サクッと割り切って先に進みましょう。

永田地名解は「イチキルシ i-chikir-ushi 熊蹄多き処。今市来知村」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.43 より引用)
ふむふむ。i-chikir-usi で「アレ・足・多くある所」となりますね。「アレ」は日本語の「アレ」と同じで、言挙げを憚るものに使われていました。例えば「蛇」や「熊」などですが、蛇には足が無いので、ここでの「アレ」は「熊」と考えるのが自然なようですね……。蛇足でした(←

なお、「イチキルシ」が「イチキシリ」になったのは、音韻転倒だと考えられます。「パナウングㇽ」が「バンナグロ(花畔)」になったのと同じですね。

……これで一件落着したと思っていたのですが、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」に別解を見つけてしまいました。

永田氏地名解ではイチキシルの訛りで、「熊蹄多キ處」とあるが、イ・チケレ・シリで、それが崩れている山と解されるが、川の名としては疑問である。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.107 より引用)
ふむ。ちょっと文が変ですが、それはさておき……。i-chikere-sir で「それ・削れている・大地」と解釈できるという話ですね。更科さんも「疑問である」と結んでいますが、確かに否定はできないものの、積極的に肯定できるものでも無さそうな感じです。まぁ、異説のひとつということで。

三笠(みかさ)

{poro-nay}-putu
{大きな川}・口
(典拠あり、類型あり)
「みかさ」と言えば「どら焼き」ですが……(関西限定?)。かつてこのあたりを国鉄幌内線が走っていて、同名の駅もありました。三笠からは幾春別までの路線と、幌内までの支線が伸びていました。炭砿で栄えた街ですね。

さて、その由来について、「北海道の地名」を見てみましょうか。

行政区画便覧は「三笠とは,明治39年市来知村,幌内村,幾春別村の三村を合併したとき,街の中心である市来知神社の裏山を表徴して命名したのである」と書いている。三村合併の意味と,山容が奈良の三笠山に似ているという意味を含めた名であろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.44 より引用)
うむ。これだと「アイヌ語地名」の「ア」の字も出てきませんね。仕方が無いので「北海道駅名の起源」からも。

 三笠(みかさ)
所在地 三笠市
開 駅 明治15年11月13日(幌内鉄道)
起 源 もと「幌内太」(幌内川の口)といったが、所在地の三笠山村が三笠町と改称したので、昭和19年 4 月 1 日、駅名も「三笠」と改めた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.60 より引用)
なるほど。もともと、三笠駅のあったあたりは poro-nay-putu「大きな川」・口)と呼ばれていたのですね。確かに幌内駅のほうから流れてくる幌内川が、幾春別川と合流するあたりです。ちなみに「幌内」は道内の至る所に見られる地名ですが、

 幌内(ほろない)
所在地 三笠市
開 駅 明治15年11月13日(幌内鉄道)(貨)
起 源 アイヌ語の「ポロ・ナイ」(親である川)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.61 より引用)
あー、これは誰が書いたか丸わかりですね。poropon に親子の関係を見いだすのは知里さんの説のひとつでした。現在の地図を見ると、「三笠幌内川」の上流に「奔幌内川」があります。pon-poro-nay だとすれば「子である・親である・川」ということになりかねませんが、そうではなくて、「子である・親川」と解釈すべきなのでしょうね。

幾春別(いくしゅんべつ)

i-kus-un-pet
それ・の向こう・ある・川
(典拠あり、類型あり)
桂沢湖に源を発し、三笠市内を西流する川の名前です。かつての国鉄幌内線の終着駅の名前でもありました。というわけで、今回は「北海道駅名の起源」から。

 幾春別(いくしゅんべつ)
所在地 三笠市
開 駅 明治21年12月10日(幌内鉄道)
起 源 アイヌ語の「イクシュンペッ」すなわち「イ・クシ・ウン・ペッ」(それのむこうにある川)から出たものである。もと「郁春別」と書いたが、明治22年から「幾春別」と改めた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.61 より引用)
ふむふむ。i-kus-un-pet で「それ・の向こう・ある・川」ですね。もともと「郁春別」だったというのは初耳でした。語義はこれで理解できたのですが、意図するところが今ひとつ不明瞭なので、「北海道の地名」を見てみましょうか。

 永田地名解は「イクㇱウンペッ。彼方の川。向ふの川とも云ふ。古へポロモイ(幌向)に土人住居せし時,彼方の川と名けたりと云ふ」と書いた。ikushun-pet(向こう側にある・川)の意。幌向川の方に済んでいたアイヌが,あっちの方の川と呼んだからの名であろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.43 より引用)
なるほどー。「幌向」というのは、かつて国鉄万字線が走っていたあたりのことですね。岩見沢を起点に考えると、幌向が東南東の方角で、幾春別が東北東の方角にあたります。どちらもそこそこ大きな谷です。

一方、更科源蔵さんは次のようにも記しています。

 地名のおこりはここを流れて岩見沢の方まで行っている幾春別川からでたもので、アイヌ語のイ・クシ・ウン・ペッからでたもので「それの彼方ん(ママ)ある川」という意味であるという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.107 より引用)
うんうん。まったく同じ見解のようですね。では続きを。

それとは山のことであって、山を越して行ったむこうにある川という意であったという。美唄や幌向の方から山を越して行くと、この川に出たのでそう名付けられたものであろう。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.107-108 より引用)
あ、更科さんは「美唄や幌向」とされていますね。もともと山田秀三さんが「幌向」と特定されていたのは永田地名解に依るものなので、今となっては確かめようが無い……かも知れません。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2013年6月22日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (117) 「志文・岩見沢・利根別」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
(この背景地図等データは、国土地理院の電子国土Webシステムから配信されたものである)

志文(しぶん)

supun-pet
ウグイ・川
(典拠あり、類型多数)
岩見沢市南部の地名で、JR 室蘭本線の「志文駅」があります。ということなので、今回は「北海道駅名の起源」から。

 志 文(しぶん)
所在地 岩見沢市
開 駅 明治35年8月1日(北海道炭砿鉄道)(客)
起 源 アイヌ語の「シュプン・ペッ」(ウグイのいる川)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.76 より引用)
ふむふむ。supun-pet で「ウグイ・川」ということですね。ただ、これだと「いる」という意味が含まれないので、もともとは supun-un-pet だったのかも知れませんね。

岩見沢(いわみざわ)

最近は、すっかり豪雪で有名な街になってしまいましたが、実は札幌から電車で 30 分もかからない所だったりします。さて、その由来ですが……。今回は我らが「角川──」(略──)から見てみましょう。

空知地方の南西部,石狩川左岸の平野部と丘陵部に位置する。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.162 より引用)
ふむふむ。江別からは少し離れているのですが、そう言えば岩見沢は空知地方なのでした。

地名の由来は,
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.162 より引用)
おっ、来ましたね!

開拓使が幌内煤田開採のため道路を開削した際,幾春別川沿いに浴場を設け,開拓使庁技師一行が浴をしたことから浴沢(ゆあみざわ)と呼称されるようになり,のちに岩見沢と転称表記されるようになったという(岩見沢市史)。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.162 より引用)
orz。どうやらコテコテの和名由来の地名のようでした。ちなみにロックな地名解がいちぶで話題の(どこで?更科源蔵さんは、次のように記しています。

 明治十一年に幌内に行く道路を測量した時、それに従事した役人が、ここで湯浴みをしたので「湯浴み沢」といったのを、後に岩見沢という地名に改めたといわれている。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.106 より引用)
あ、まったく同じことが書かれていますね。続きも見てみましょうか。

しかしあるアイヌの古老の話に、昔札幌付近の酋長琴似又一老にきいた話では、岩見沢より志文よりのところにクト゚サンペッという川があって、その川の名を訳して岩見沢としたのだという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.106 より引用)
おっと! 新説が飛び出しました。これはちょっと気になりますね。さらに続きがあります。

しかし昔の地図にそういう名の川は見あたらない。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.106 より引用)
……。ロックですね。

利根別(とねべつ)川

to-ne-pet?
沼・のような・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
岩見沢の街の中を流れる川の名前……です。最近川の名前が多いですが、ええ、それはその……(何なんだ)。

ということで、川の名前と来れば山田秀三さんです。「北海道の地名」から。

 岩見沢市街を曲流している幌向川支流。語義不詳。ト・ネ・ペッ(to-ne-pet 沼・のようになっている・川)か。あるいはトゥンニ・ペッ(tunni-pet 柏の木・川)か。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.43 より引用)
例によって、セカンドオピニオンとして更科源蔵さんの地名解を確認してみたところ、更科さんも to-ne-pet 説のようでした。to-ne-pet で「沼・のような・川」と見るのが自然なのでしょうね。

tunun-pet で「間にある・川」とは考えられないか……とも思ったのですが、あくまで試案です。似たような例も知りませんし……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International