やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
市来知(いちきしり)
i-chikir-us-i?
アレ・足・多くある・所
(? = 典拠あり、類型未確認)
道央道・岩見沢 SA の東のあたりを流れる川の名前です。幾春別川の支流ですね。市来知川から離れた三笠市内に「市来知神社」があるようで、ちょっと混乱してしまいますが……。というわけで、
山田秀三さんの「北海道の地名」から。
市来知川は三笠市と岩見沢市の境を流れる川の名であるが,市来知という土地はそこから東の地域だったか。
ふむ。ちょっと謎が残る感じですが、サクッと割り切って先に進みましょう。
永田地名解は「イチキルシ i-chikir-ushi 熊蹄多き処。今市来知村」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.43 より引用)
ふむふむ。
i-chikir-usi で「
アレ・足・多くある所」となりますね。「アレ」は日本語の「アレ」と同じで、言挙げを憚るものに使われていました。例えば「蛇」や「熊」などですが、蛇には足が無いので、ここでの「アレ」は「熊」と考えるのが自然なようですね……。蛇足でした(←
なお、「イチキ
ルシ」が「イチキ
シリ」になったのは、音韻転倒だと考えられます。「パ
ナウングㇽ」が「バ
ンナグロ(花畔)」になったのと同じですね。
……これで一件落着したと思っていたのですが、
更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」に別解を見つけてしまいました。
永田氏地名解ではイチキシルの訛りで、「熊蹄多キ處」とあるが、イ・チケレ・シリで、それが崩れている山と解されるが、川の名としては疑問である。
ふむ。ちょっと文が変ですが、それはさておき……。
i-chikere-sir で「それ・削れている・大地」と解釈できるという話ですね。更科さんも「疑問である」と結んでいますが、確かに否定はできないものの、積極的に肯定できるものでも無さそうな感じです。まぁ、異説のひとつということで。
三笠(みかさ)
{poro-nay}-putu
{大きな川}・口
(典拠あり、類型あり)
「みかさ」と言えば「どら焼き」ですが……(
関西限定?)。かつてこのあたりを国鉄幌内線が走っていて、同名の駅もありました。三笠からは幾春別までの路線と、幌内までの支線が伸びていました。炭砿で栄えた街ですね。
さて、その由来について、「北海道の地名」を見てみましょうか。
行政区画便覧は「三笠とは,明治39年市来知村,幌内村,幾春別村の三村を合併したとき,街の中心である市来知神社の裏山を表徴して命名したのである」と書いている。三村合併の意味と,山容が奈良の三笠山に似ているという意味を含めた名であろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.44 より引用)
うむ。これだと「アイヌ語地名」の「ア」の字も出てきませんね。仕方が無いので「北海道駅名の起源」からも。
三笠(みかさ)
所在地 三笠市
開 駅 明治15年11月13日(幌内鉄道)
起 源 もと「幌内太」(幌内川の口)といったが、所在地の三笠山村が三笠町と改称したので、昭和19年 4 月 1 日、駅名も「三笠」と改めた。
(「
北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.60 より引用)
なるほど。もともと、三笠駅のあったあたりは
poro-nay-putu(
「大きな川」・口)と呼ばれていたのですね。確かに幌内駅のほうから流れてくる幌内川が、幾春別川と合流するあたりです。ちなみに「幌内」は道内の至る所に見られる地名ですが、
幌内(ほろない)
所在地 三笠市
開 駅 明治15年11月13日(幌内鉄道)(貨)
起 源 アイヌ語の「ポロ・ナイ」(親である川)から出たものである。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.61 より引用)
あー、これは誰が書いたか丸わかりですね。
poro と
pon に親子の関係を見いだすのは
知里さんの説のひとつでした。現在の地図を見ると、「三笠幌内川」の上流に「奔幌内川」があります。
pon-poro-nay だとすれば「子である・親である・川」ということになりかねませんが、そうではなくて、「子である・親川」と解釈すべきなのでしょうね。
幾春別(いくしゅんべつ)
i-kus-un-pet
それ・の向こう・ある・川
(典拠あり、類型あり)
桂沢湖に源を発し、三笠市内を西流する川の名前です。かつての国鉄幌内線の終着駅の名前でもありました。というわけで、今回は「北海道駅名の起源」から。
幾春別(いくしゅんべつ)
所在地 三笠市
開 駅 明治21年12月10日(幌内鉄道)
起 源 アイヌ語の「イクシュンペッ」すなわち「イ・クシ・ウン・ペッ」(それのむこうにある川)から出たものである。もと「郁春別」と書いたが、明治22年から「幾春別」と改めた。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.61 より引用)
ふむふむ。
i-kus-un-pet で「
それ・の向こう・ある・川」ですね。もともと「郁春別」だったというのは初耳でした。語義はこれで理解できたのですが、意図するところが今ひとつ不明瞭なので、「北海道の地名」を見てみましょうか。
永田地名解は「イクㇱウンペッ。彼方の川。向ふの川とも云ふ。古へポロモイ(幌向)に土人住居せし時,彼方の川と名けたりと云ふ」と書いた。ikushun-pet(向こう側にある・川)の意。幌向川の方に済んでいたアイヌが,あっちの方の川と呼んだからの名であろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.43 より引用)
なるほどー。「幌向」というのは、かつて国鉄万字線が走っていたあたりのことですね。岩見沢を起点に考えると、幌向が東南東の方角で、幾春別が東北東の方角にあたります。どちらもそこそこ大きな谷です。
一方、更科源蔵さんは次のようにも記しています。
地名のおこりはここを流れて岩見沢の方まで行っている幾春別川からでたもので、アイヌ語のイ・クシ・ウン・ペッからでたもので「それの彼方ん(ママ)ある川」という意味であるという。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.107 より引用)
うんうん。まったく同じ見解のようですね。では続きを。
それとは山のことであって、山を越して行ったむこうにある川という意であったという。美唄や幌向の方から山を越して行くと、この川に出たのでそう名付けられたものであろう。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.107-108 より引用)
あ、更科さんは「美唄や幌向」とされていますね。もともと山田秀三さんが「幌向」と特定されていたのは永田地名解に依るものなので、今となっては確かめようが無い……かも知れません。
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