2012年11月11日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (88) 「落石・別当賀・初田牛」

引き続き、根室本線沿いのアイヌ語地名の数々を見ていきましょう。

落石(おちいし)

ok-chis
うなじ・中くぼみ
(典拠あり、類型あり)
根室の南にある漁村で、陸繋島の先には「落石岬」があります。JR 根室本線(花咲線)の落石駅もあります。こんな地形です。
というわけで、山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

 オㇰチㇱ(ok-chish)は,知里博士小辞典では「人体について云えば“ぼんのくぼ”,地形について云えば“峠”。ok(うなじ)-chish(中くぼみ)」と書かれている。ここでいえば突き出した山が頭首で,頸部の低い処がオㇰチㇱ(ぼんのくぼ)なのであった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.244 より引用)
というわけで、ok-chis で「うなじ・中くぼみ」と解釈して良さそうですね。ちなみに、山田さんの文には続きがありまして……

他地では峠のことをふつうルー・チㇱ「道の(ある)・くぼみ」という。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.244 より引用)
確かにそうですね。わざわざ「オㇰチㇱ」という表現になっているのは、「峠」のように峻険な「谷」ではなく、ゆっとりとした傾斜の「盆地」状の地形だから、かなぁと思っています。

別当賀(べっとうが)

pet-utka
川・波立つ浅瀬
(典拠あり、類型あり)
落石の西、風蓮湖の南にあたる所で、JR 根室本線(花咲線)の別当賀駅もあります。駅名は「べっとが」なのですが、地名は「べっとうが」のようですね。

「角川──」(略──)を見てみましょう。

〔近代〕昭和42年~現在の根室市の行政字名。もとは根室市大字厚別村・落石村の各一部,サンリハマ(三里浜)・フレシマ・テングイワ(天狗岩)・別当賀・コタントウハイ・ペツトウカ・別当賀一番沢・ペンケトウバイ。古くはベトカ・ベトツカなどとも称し,辺特加川とも書いた。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1323 より引用)
「ベトツカ」という語感からは、何かベトつく感じがしますが……(←)。

地名は,「北海道の地名」では,アイヌ語のペッ・ウッカ(川の・浅瀬の上を水がうねり流れる所の意)に由来し,「北海道蝦夷語地名解」では,ペトゥッカ(浅瀬の意)とある。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1323 より引用)
んー、これだと互いの解釈に食い違いがあるように見えてしまいますが、実際に「北海道の地名」を見てみると、両者は同じであることがわかります。pet-utka で、「川・波立つ浅瀬」という意味ですね。ut というのは「脇腹」という意味で、転じて「脇腹のように波立っている」ということのようです。

初田牛(はったうし)

hat-ta-us-i?
ヤマブドウ・採る・いつもする・所
hattar-us-i?
淵・そこにある・もの
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
厚床の南東、根室市と浜中町の境界にほど近いところにある地名です。JR 根室本線(花咲線)の初田牛駅があります。…… 3 駅続きましたね。

とりあえず、「北海道の地名」を見てみましょうか。

 永田地名解は「ハッ タウㇱ。葡萄を採る処。厚岸村アイヌ村田紋助云ふ。ハッタウシは葡萄を採る処の義なりと,今此の説に従ふ。根室郡穂香村アイヌ村田金平はハッタラウシにて淵の義なりと云ふ」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.245 より引用)
前者は hat-ta-us-i で「ヤマブドウ・採る・いつもする・所」、後者は hattar-us-i で「淵・そこにある・もの」という意味になりますね。山田秀三さんは、この二説について、

 どっちが正解なのかは今となっては分からない。古い松浦図はハッタウシなので,それが原型だとするならば前説に従うべきか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.245 より引用)
と、やや「山葡萄説」に傾いていたようですが、一方で更科源蔵さんは次のようにも記しています。

オ・ハッタラ・ウㇱ(川口が淵になっている所)からでたという。またこの川と並んでいる流れを、松浦地図にハッタウシとあり、永田氏も葡萄をとる処と訳し、これは厚岸のアイヌ太田紋助にきいたとある。現在はこの流域は伐り開かれ勿論一本の葡萄もない、付近の人の話では昔からなかったという。したがってオハッタラウシが正しいと思う。現在もこの川口は深い淵になっている。
(更科源蔵「更科源蔵アイヌ関係著作集〈6〉アイヌ語地名解」みやま書房 p.274 より引用)
更科源蔵さんは o-hattar-us-i 説のようですね。初田牛川は太平洋に注ぎ込むかなり短い川なのですが、確かに「河口・淵・そこにある・もの」と呼べそうな地形ではあります。そして「付近の人の話では昔から(葡萄は)なかった」というのは強力な証言に思えます。o- はどこへ行ったんだ、という疑問も残りますが……。

あ、それと、お気づきでしょうか? 永田方正のインフォーマントの名前を、山田秀三さんは「村田紋助」と記しているのに対して、更科源蔵さんは「太田紋助」としています。

原本(北海道蝦夷語地名解)を見てみると、確かに「村田紋助」と記されているのですが、厚岸のアイヌとして高名だったのは「太田紋助」さんのようなので、つまりは永田方正翁が「太田紋助」と書くべきところを「村田紋助」にしてしまったのが間違いの始まり……であるように推測されます。謎が謎を呼びますね……。

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