2012年10月6日土曜日

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北海道のアイヌ語地名 (77) 「朱円・オシンコシン・ウトロ」

 

本日は優雅に知床観光と行きましょう!

朱円(しゅえん)

suma-tukari-pet
石・手前・川
(典拠あり、類型あり)
いちぶで有名な、曰くありげなアイヌ語地名です。例によって例の如く、山田秀三さんが秀逸な説明をなされていますので、引用してみましょう。

 峰浜の市街の辺が昔はシュマトゥカリと呼ばれ,川はシュマトゥカリペッといわれた。斜里町史地名解は「シュマトゥカリペッ(suma-tukari-pet 石の・こちらの・川)。この川を境にして斜里方面は砂浜,東の方は石原なのでこの名がついた」と書いた。
 この辺の海岸は斜里からずっと砂浜続きで浜伝いに歩いて来れるのであるが,この川を越えるといきなり大きなごろた石だけの岸である。地名で tukari(手前)という言葉を使うのは,この種の特殊な地名の場合である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.221 より引用)
-tukari という地名で思い出すのが、内浦湾の「静狩」(しづかり)と下北半島の「尻労」(しつかり)ですね。どちらも似た地形で、山田さんはこの両者の由来が同一ではなかろうか、とされていました。

さて、「シュマトゥカリ」ではなくて「朱円」ですが……

 そのシュマトゥカリからこの辺一帯の地名ができて,明治30年 5 万分図では朱円村と書いて,朱円にシュマトカリと振り仮名している。円(まどか)を考えたのであろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.221 より引用)
というわけで、「朱円」を「シュマトカリ」と読ませる大技が炸裂していたのでした。飛んで飛んで飛んで……(←

だがこの字でそう読ませるのは無理であるので,早いころから「しゅえん」と音読みで呼ぶようになった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.221 より引用)
回って回って回って回~るぅ~(笑)。気の利いた字を充てたつもりが徒になってしまったようですね。

明治のころ,道内の処々で,学のある人たちが難しい当て字で地名をつくり,後人が閉口した一つの例であった。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.221 より引用)
難しい当て字で……という例の究極は、やはり釧路近郊かなぁと思われます。追々ご紹介できるかと思います。

 川名のほうが今もシマトカリで,ほぼ旧名を残している。島戸狩川と漢字を当てても書かれた。ここが知床半島の入口である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.221 より引用)
最初から「島戸狩」にしておけばいいのに、と思う人は少なくないのではないでしょうか。おさらいですが、「朱円」の由来は suma-tukari-pet で「石・の手前・川」です。

オシンコシン

o-sunku-us-i
川尻・蝦夷松・多くある・所
(典拠あり、類型あり)
斜里から知床に向かう途中に見える「オシンコシンの滝」で有名な地名ですが、この滝自体は岩肌を滑り落ちるような滝で、アイヌ語では「チャラセナイ」(charse-nay)と呼ばれるものです(実際に川の名前は「チャラッセナイ川」となっています)。
じゃあ「オシンコシンって何?」という話なのですが、オシンコシンの滝のあるあたりを国道はトンネルで抜けています。このトンネルの上にあるのが「オシンコシン崎」という岬です。……ここからは山田秀三さんの文章を引用しておきましょうか。

 同図では,この岬の東のたもとに近い処にオシュンクウシという小川が書かれている。オ・シュンク・ウㇱ・イ「o-shunku-ush-i 川尻に・蝦夷松が・群生している・もの(川)」の意であろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.222 より引用)
「同図」というのは、明治30年の 5 万分図のことです。「シュンク」というのは「春国岱」でも出てきましたが、「エゾマツ」という意味ですね。たまーに地名にも出てくる単語です。

 松浦氏再航蝦夷日誌では「ヲシユンクシ。番屋有,又夷人小屋も有」と書かれた。それがオシンコシンと訛り、この辺一帯の地名となって,滝の名にも使われたのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.222 より引用)
ということで、古い地名から見ても、o-sunku-us-i で「川尻・蝦夷松・多くある・所」と見て間違いなさそうです。

ウトロ(宇登呂)

uturu-chi-kus-i?
間・われら・通行する・所
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
最近ではカタカナで書かれることの方が多いですが、もともとは「宇登呂」という字を充てられていた地名です。知床観光のベースキャンプとして有名ですね。今回も「北海道の地名」を見てみましょう。

斜里町史地名解は「原名ウトゥルチクシ(uturu-chi-kush-i その間を・我等が・通行する・所)。岩と岩との間に細道を通って部落から浜へ往来するのでこの名がある」と書いた。今でも港の浜の処々に巨巌があるのがその名残りらしい。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.222 より引用)
ふむふむ。uturu-chi-kus-i で「間・われら・通行する・所」ということのようですね。ただ、こんな話もあります。

 なお松浦氏知床日誌には「ウトルチクシ。名義、岩間を舟が越る義か」と書いた。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.222 より引用)
この説が正しいとすると、uturu-chip-kus-i で「間・舟・通行する・所」となりますね。んー、もしかしたらこっちが正解なのかも。

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