強硬派を発見
さてさて。「北方館」と「望郷の家」を見学して、外に出てみたところ、こんな碑を見つけました。はい。「返せ 全千島樺太」と書いてあります。「四島返還」あるいは「とりあえず二島だけでも先行返還」という話をしている?ところに、随分と大胆な主張が飛び込んできました。
横死……?
続いてはこんな石碑も。真ん中の石碑は、木製の囲いがつけられていますが、目新しい石碑ばかりが目立つこのあたりにあっては、珍しく少々古そうなものです。さて、何と書いてあるのでしょう……?
「横死七十一人之墓」とあります。む、これは石碑ではなくてお墓だったのですね……(失礼しました)。それにしても「横死」とは穏やかではありません。一体何があったのでしょう。
どうやら、江戸時代は寛政の頃に「蜂起」があって、その犠牲になった、ということのようです。「和人殉難墓碑」とあるからには、蜂起したのは「和人」ではない人たちだったのでしょうね。
「和人殉難墓碑」の由来
根室市の Web ページには、次のような説明があります。明治45年5月珸瑶瑁で波打ち際の砂に埋まっているところを発見された。ほえー、砂に埋まっているところを発見されたとは……。「クナシリ・メナシの戦い」というのは、道東に於けるアイヌの蜂起の中でも最大級のものだったと言われますが、まさか墓碑が砂に埋まっていたとは驚きです。
この墓碑が現在に伝えているのは一般に寛政元年に起きた「寛政アイヌの蜂起」、「クナシリ・ナメシの戦い」などと呼ばれている出来事です。
この墓碑は最初「寛政の乱和人殉難墓碑」として指定されていましたが、昭和63年に現在の名称に変更されました。
ごーうぇーっ♪
さて。9 時過ぎに納沙布岬にやってきましたが、あちこち見物していたところ、もう 10 時 40 分になってしまいました。ここからの行程はこんな感じなのですが、
かなり遠い……と見せかけて 300 km ちょいしかありません。カーナビさんも
「午後 5:31 には着くと思う」と言ってるくらいですから、それほど大した距離ではなさそうです。というわけで、帯広に向かってカモンカモンカモンカモン Go West~♪
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