茨城県は大洗にやってきました。
車は船倉の一番下に停めて……
いかにも「業務用」っぽいエレベーターに乗って……
……おっと、船が動き始めてしまいました。とりあえず今日はいったんこの辺で!
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2012年8月31日金曜日
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2012年8月30日木曜日
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2012年8月29日水曜日
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2012年8月28日火曜日
その頃、色丹島にはソ連軍の国境警備隊が大勢入っていて、兵舎づくりをやらされていました。ソ連兵は馬の扱いに慣れていて、四頭引きで山から丸太を切り出してきては「ベステレ、ベステレ」(早くやれ)と言います。木工場がなく、すべて手斧(ておの)や鉞(まさかり)で木を削り、それから墨入れして、鋸(のこぎり)と鑿(のみ)で切込み仕事をするのですから目に見えて家が建ちません。ソ連兵は、早くしないと牢に入れると脅し、布川さんたちをせき立てます。
一本でも柱を建てると納得するのでしょうが、日本式の建て方をソ連兵は解らないのです。布川さんたちは、木材の切り込みが終わって一斉に建て前をするのです。「日本人は頭がいいから、今に一気に建ててみせる」と説明しても、なかなか信用しません。ところが半年くらいして一挙に兵舎の棟上げをしたところ、ソ連軍将校も「ハラショ、ハラショ」と大喜びで、それ以来、布川さんらを建築技術者と認め、掌を返したように待遇が良くなったということです。
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2012年8月27日月曜日
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2012年8月26日日曜日
湧別川上流の川名,町名。丸瀬布市街は,湧別川北岸の街で,ここまで川を遡ってこれだけの町並みがあったかと思うような処。駅からまっすぐ川に出で,橋から湧別川を見おろすと目がくらくらするような峡谷である。
丸瀬布川は街の上手のはずれで西から湧別川に注いでいる川で,それがこの名のもとになったらしいが,永田地名解は,ただ「マウレセㇷ゚ ?」と書いているだけである。
私も語義の見当がつかない。土地では小さい小川の集まってできた広い処との説があるやに聞いたが,よく分からない。
古くはマウレセプと称した。網走地方中部,湧別川および同川支流丸瀬布川・武利川流域の山間に位置する。地名の由来はアイヌ語マウレセプで,「北海道駅名の起源」では「三つの川の集まる広い所,と言われているが真意は不明」とある。また「丸瀬布郷土資料6」では「子の川が並んで3つある広い所の意」と述べている。
アイヌ時代の住居跡である金山遺跡があるが,文政年間の間宮林蔵蝦夷図には当地にコタンの表示がないので,その頃すでに地内のアイヌ集落は消滅してしまっていたと思われる。
同年山形県人小林兵次が入植,翌40年以降岐阜県人,山形県人などが移住,大正初年にはマウレセップ原野13~14号間に小市街地が形成され,ワッカサクナイ市街と呼ばれた。ワッカサクナイ(水が涸れる沢の意)は,明治30年代からコタン沢(字柏)に居住していた上川アイヌによって名付けられたと思われる。
遠軽町内。遠軽市街から湧別川を約10キロ遡った処で,南の山から注いでいる川名,付近の地名。昔からその名だったのなら,セトゥシ「set-ush-i 巣・多い・もの(川)」のような意味であろう。だが明治31年5万分図では今の瀬戸瀬川の処にセタニウシウトゥルコツとあり,その東の山がセタニウシ山である。
セタニウシウトゥルコツだったら setani-ushi-utur-kot「えぞのこりんごの木が・群生する処・の間の・沢(凹地)」であったろう。セタニウシがセタウシとなり,更に瀬戸瀬と訛ったと考えたいが,だいぶ音が離れているようで全く自信がない。
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2012年8月25日土曜日
留辺志部川上流の南支流の名。北見境の山から出て国鉄中越駅の対岸で本流に入る。トゥイマ・ルペㇱペ(tuima-rupeshpe 遠い・峠道沢)と読まれる。少し遠いが山越えの峠道でもあったのだろうか。
上川町と,北見の滝上町,白滝村の境になっている高山の名。チトゥカン(chi-tukan 我ら・射る)という言葉が地名に出て来るのは,狩猟等でそこを通る時に,特定の目標に矢を射って武運を占った処である。この地名の形から見るとチトゥカンニウシ(chi-tukan-ni-ush-i 我ら・射る・木・がある・処)つまり,そこを通る人たちが矢を放って運を占った大木があった処の名で,それがこの山の名となったのであろう。
2022/3/26 の記事をご覧ください。
網走地方中央南部,湧別川上流,および同川支流の支湧別川流域の山間に位置する。現字下白滝の湧別川に滝があり,白滝と称されていたことから,明治36年植民地設定の際白滝植民地となった。文政年間の間宮林蔵の蝦夷図には「ショー」(滝),安政5年の松浦武四郎「戊午日誌」には「ポロソウ」(大滝)の記述がある。
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2012年8月24日金曜日
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2012年8月23日木曜日
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