2012年8月31日金曜日

きょうの出来事(2012/8/31)

えー、ようやく夏休みを取ることができました。というわけで……
茨城県は大洗にやってきました。

車は船倉の一番下に停めて……
いかにも「業務用」っぽいエレベーターに乗って……
……おっと、船が動き始めてしまいました。とりあえず今日はいったんこの辺で!

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2012年8月30日木曜日

道東の旅 2011/春 (117) 「北方四島で最大の島は?」

たまにはカラーで

窓際には、またしても手作り感の漂う「国後島」と「色丹島」の地図がありました。
こうやって見てみると、根室海峡の水深の浅さが目立ちますね。

国後島旧島民の生活

さて、次は「国後島旧島民の生活」です。
まずは「活動風景写真」から。
こうやって地道なフィールドワークを続けるのは良い経験になりますね。

北方四島で最大の島は?

「国後島──」にも色々と興味深い内容があったのですが……とりあえずこちらから。
「北方領土各島との比較」という表なのですが……拡大したものがこちらです。
ご存じの通り、北方四島でもっとも大きいのは「択捉島」なんですが、人口は「国後島」の約半分しかいなかったんですね。延べ面積では 1/30 しか無い歯舞群島よりも少なかったというのは意外です。

泊村・留夜別村

こちらは……また随分と「使い込んだ感」がある国後・色丹の地図ですね。
国後島の北側に「爺々岳」(ちゃちゃだけ)があって、そこからまっすぐ東に小さな島が見えます。あれ、こんなところに島なんてあったっけ? と思ったのですが、よーく見るとこれは択捉島の南端でした。

これは国後島の白地図ですね。主要な道路と地名が記してあります。
南西側の村が「泊村」で、北東側の村が「留夜別村」ですね。「留夜別」(るよべつ)というのはなかなか良い響きの地名だなぁ、と思います。

釧路新聞にも

「国後──」の研究は 1988 年度に行われたようで、例によって地元紙の記事になったようです。
別になーんてことは無いのですが、こうやって採り上げてもらえるとモチベーションが湧きますよね。

最後は

最後に……
「歯舞諸島旧島民の生活」を見て、おしまいです。

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2012年8月29日水曜日

道東の旅 2011/春 (116) 「引き揚げルートの謎」

北海道と言えば

北海道最東端の「納沙布岬」に屹立する「平和の塔」にて絶賛展示中の、北海道根室高等学校地理研究部の素晴らしい研究成果を眺めていますが……。おや?
北海道と言えば、やはり「地名の由来」は外せないのか、1 枚だけこんな展示が紛れていました。歯舞は「流氷・ある・島」だとのことですが……。これも追々と検証?していきましょう。

水晶島旧島民の生活

さて、「色丹島──」の次は「水晶島旧島民の生活」です。
「水晶島」というのは、歯舞群島の中でも北海道に近い島の一つで、天気が良ければ肉眼でも目にすることができます。全体的にとても平べったい形の島で、
この「水晶島百科地図」を見ても、三角点の標高はわずかに 18.0 m のようです。ちなみに、字がつぶれて見えないと思いますが、島の周囲にびっしりと描かれているのは、当時(終戦直前でしょうかね)の住民の名前です。これを見る限り、道路もあったとは言え、島内の移動でも船を漕ぎ出していたようにも見受けられます。

地元の話題

この「水晶島百科地図」は新聞にも採り上げられたようです。
日付を見ると 1986 年ですから、「色丹島──」の 2 年前の研究成果だったようですね。……と思ったら違ってました。
「水晶島旧島民の生活」は 1985 年度の研究成果で、1986 年度は「歯舞諸島旧島民の生活」だったようです。

引き揚げルートの謎

歯舞諸島からの引き揚げに際しては、こんなミステリアスな話があったそうです。
志発島から船に乗れば根室まですぐ……なのに、なぜか樺太の真岡まで行って(樺太の位置がおかしいのはご愛敬)、そこからわざわざ函館に向かったのだとか。何らかの意図があったのでしょうが、それは一体何だったのでしょう……。

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2012年8月28日火曜日

道東の旅 2011/春 (115) 「ハラショー!」

色丹島旧島民の生活

さて。「報道用・商業目的の撮影お断り」の「平和の塔」の中に入ってみました。展望台に上がる前に、1 階部分になにやら展示があるようなので、まず展示を見てみましょう。
こちらも手書き感満載の「色丹島旧島民の生活」という文字が躍ります。「制作 北海道根室高等学校地理研究部」とあるように、これは高校生の手によるもののようです。

ご覧の通り、かなり多くのパネルが並べられているのですが、もともとは冊子として作成されたものを展示しているようですね。まずは表紙から。
並びの関係上、いきなり「その 4」から見てしまっていますが……。この「研究」は 1988 年になされたもののようです。当時はまだ「ソ連」が健在でした。
時期的には「文豪」や「OASYS」、「Rupo」や「書院」などの「日本語ワープロ専用機」が全盛だったころなので、最近では滅多に見かけなくなった「倍角文字」が見出しで踊っています。懐かしいですね。

どうやらこの年は絵心のある部員さんがいたようで、随所でこのようなイラストを見ることができます。

色丹島にはビリヤード屋が 3 軒もあった

こんな記事もありました。
これは「色丹島」の話題ですが、パチンコ店が 2 軒あったのはさておき、ビリヤード場が 3 軒もあったというのは驚きです。イラストもなかなかいい味を出していますね。

国策映画は往々にして退屈な代物

敗戦後の千島列島では、ソ連軍が南下してくると同時に住民は本土へと脱出していった……と漠然と思っていたのですが、実際には少なからぬ数の人が逃げ遅れていたようですね。逃げ遅れた日本人を「教化」するために、ソ連もお決まりの手を使ったようですが……
国策映画が往々にして退屈な代物なのは、世の東西を問わないということかも知れませんね。

このような感じで、基礎的な知識からトリビアまで、なかなか興味深い内容が盛りだくさんだったりします。「酒好きのロシア人は、羅針盤の中にアルコールが入っているのを知って、島中の羅針盤を全部壊してしまった」という、まるでアネクドートのような話までありました。

ハラショー!

この話もなかなか面白いです。
「兵舎づくり」と題された記事ですが、一部を引用しますと……

その頃、色丹島にはソ連軍の国境警備隊が大勢入っていて、兵舎づくりをやらされていました。ソ連兵は馬の扱いに慣れていて、四頭引きで山から丸太を切り出してきては「ベステレ、ベステレ」(早くやれ)と言います。木工場がなく、すべて手斧(ておの)や鉞(まさかり)で木を削り、それから墨入れして、鋸(のこぎり)と鑿(のみ)で切込み仕事をするのですから目に見えて家が建ちません。ソ連兵は、早くしないと牢に入れると脅し、布川さんたちをせき立てます。
 一本でも柱を建てると納得するのでしょうが、日本式の建て方をソ連兵は解らないのです。布川さんたちは、木材の切り込みが終わって一斉に建て前をするのです。「日本人は頭がいいから、今に一気に建ててみせる」と説明しても、なかなか信用しません。ところが半年くらいして一挙に兵舎の棟上げをしたところ、ソ連軍将校も「ハラショ、ハラショ」と大喜びで、それ以来、布川さんらを建築技術者と認め、掌を返したように待遇が良くなったということです。
(「色丹島旧島民の生活記録と観光客対象の意識調査」北海道根室高等学校地理研究部 1988 より引用)
ありゃ。ほぼ全てを引用してしまった(汗)。この話はハッピーエンドなのが素晴らしいですね。シベリア抑留のような悲惨な話で無いのが救いです。

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2012年8月27日月曜日

道東の旅 2011/春 (114) 「最東端のガソリンスタンド(跡)」

最東端のガソリンスタンド跡

北海道最東端の「納沙布岬」の話題を続けます。
とっても紛らわしいのですが、稚内にあるのが「野寒布岬」(ノシャップ)で、根室にあるのが「納沙布岬」(ノサップ)です。未だに間違えそうになることがあります……。

かつては「最東端のガソリンスタンド」だったと思われる遺構がありました。

「平和の塔」

それでは、納沙布岬界隈でひときわ目立つ、この「塔」を覗いてみましょう。
納沙布岬灯台を遙かに上回るスケールで根室海峡に睨みを利かしているこの塔の名前は、何と……
「平和の塔」と言うのだとか。この「平和の塔」、最初にネタバレしておきますと、「世界は一家、人類は皆兄弟」で有名な財団によって運営されています。

暗くなるまで営業中

実は、納沙布岬には 2008 年にも来たことがあるのですが、その時は 17 時を過ぎていたので、軒並み「営業終了」になっていたのでした。でも、今回はちゃんと朝から来ているので……
「営業中」の文字が光ります。

展望室の入場料金は「おとな 900 円」とのこと。それなりの価格設定ですが、まぁ一度くらいはいいかな……と。
そして、こんな案内も。
手書きなのが良い味出てますね。

ご遠慮願っております

逆に、ちょっと身構えてしまうのがこちら。
なんか、以前にもどこかでこの文面を見たような……。そうそう、確か靖国神社もこんな感じでした。うちの Blog は報道ではありませんし、商業目的でもないので問題無い筈なのですが、なんか身構えてしまいますよね。

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2012年8月26日日曜日

北海道のアイヌ語地名 (70) 「丸瀬布・若咲内・瀬戸瀬」

昨日とは打って変わって、比較的わかりやすいネタを揃えた……つもりだったのですが。世の中そう甘くは無いものですね(笑)。

丸瀬布(まるせっぷ)

maw-re-sep?
風・三つ・広くなる
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
かつて森林鉄道が走っていて、そこで使用されていた雨宮製作所の蒸気機関車が保存されていることで有名なところです。かつては「丸瀬布町」でしたが、今は合併で遠軽町になっています。

というわけで、まずは山田さんの「北海道の地名」を見ていきましょう。

 湧別川上流の川名,町名。丸瀬布市街は,湧別川北岸の街で,ここまで川を遡ってこれだけの町並みがあったかと思うような処。駅からまっすぐ川に出で,橋から湧別川を見おろすと目がくらくらするような峡谷である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.187 より引用)
これはまた随分と面白い感想で……。続けましょうか。

 丸瀬布川は街の上手のはずれで西から湧別川に注いでいる川で,それがこの名のもとになったらしいが,永田地名解は,ただ「マウレセㇷ゚ ?」と書いているだけである。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.187 より引用)
おお、またしても伝家の宝刀「?」が炸裂しましたね。

私も語義の見当がつかない。土地では小さい小川の集まってできた広い処との説があるやに聞いたが,よく分からない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.187 より引用)
山田さんも匙を投げてしまった……! 仕方が無いので、「角川──」(略──)を見てみましょうか。

古くはマウレセプと称した。網走地方中部,湧別川および同川支流丸瀬布川・武利川流域の山間に位置する。地名の由来はアイヌ語マウレセプで,「北海道駅名の起源」では「三つの川の集まる広い所,と言われているが真意は不明」とある。また「丸瀬布郷土資料6」では「子の川が並んで3つある広い所の意」と述べている。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1425 より引用)
うー、途中までいい線行っていたのになぁー。「と言われているが真意は不明」なのだそうです。つづき。

アイヌ時代の住居跡である金山遺跡があるが,文政年間の間宮林蔵蝦夷図には当地にコタンの表示がないので,その頃すでに地内のアイヌ集落は消滅してしまっていたと思われる。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1425 より引用)
なるほど……。とりあえず、手元の辞書などを当たってみたのですが、どうにも良くわかりません。特に「マウ」が意味不明です。

もし、仮に maw-re-sep だとしたら、「風・三つ・広くなる」となりそうです。きっと「レ」と「セプ」はこの解釈なのだと思いますが……。現実の丸瀬布の地形も、武利川と丸瀬布川が湧別川に合流するところで、やや開けた地形ではあるのですが……。

若咲内(わかさくない)

wakka-sak-nay
水・無い・沢
(典拠あり、類型あり)
稚内の近くには「稚咲内」という地名がありますが、ここは「若咲内」ですね。由来はおそらく同じで、wakka-sak-nay で「水・無い・沢」だとのこと。念のため、「角川──」()を見てみましょう。

同年山形県人小林兵次が入植,翌40年以降岐阜県人,山形県人などが移住,大正初年にはマウレセップ原野13~14号間に小市街地が形成され,ワッカサクナイ市街と呼ばれた。ワッカサクナイ(水が涸れる沢の意)は,明治30年代からコタン沢(字柏)に居住していた上川アイヌによって名付けられたと思われる。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.1637 より引用)
なるほど。ということなのだそうです。

瀬戸瀬(せとせ)

setani-us-i?
エゾノコリンゴ・多くある・所
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
新潟県の関越自動車道には「山本山トンネル」というトンネルがありますが……関係無いですね、はい。

山田秀三さんの見解がなかなか卓見に思えるので、ちょいと引用してみましょう。

 遠軽町内。遠軽市街から湧別川を約10キロ遡った処で,南の山から注いでいる川名,付近の地名。昔からその名だったのなら,セトゥシ「set-ush-i 巣・多い・もの(川)」のような意味であろう。だが明治31年5万分図では今の瀬戸瀬川の処にセタニウシウトゥルコツとあり,その東の山がセタニウシ山である。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.186 より引用)
ふむ。確かに「背谷牛山」という山がありますね。続きを見てみますと……

 セタニウシウトゥルコツだったら setani-ushi-utur-kot「えぞのこりんごの木が・群生する処・の間の・沢(凹地)」であったろう。セタニウシがセタウシとなり,更に瀬戸瀬と訛ったと考えたいが,だいぶ音が離れているようで全く自信がない。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.186 より引用)
うーん。困りましたね。山田さんの「発見」から推測すると、もともと setani-usi だったものが seta-usi となり、さらに訛って「瀬戸瀬」になった、と見るしか無さそうです。setani-us-i で「エゾノコリンゴ・多くある・所」としておきましょう。

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2012年8月25日土曜日

北海道のアイヌ語地名 (69) 「トイマルクシュベツ川・チトカニウシ山・スプリコヤンベツ川・白滝」

第 69 回を記念して(なんでだ)、超スーパーマニアックな地名を揃えてみました(最後にはお口直しもご用意しています)。それではどうぞ!

トイマルクシュベツ川

tuyma-ru-kus-pet?
遠い・路・通っている・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)
上川町の、以前にご紹介した「茅刈別川」の隣を流れている川の名前です。
「トイマルクシュベツ」という文字を見た時に、「これは絶対『トイマクルシュベツ』の間違いだろう」と思ったのですが、どうやらそうでも無かったようで……。山田秀三さんの「北海道の地名」に記載がありました。

 留辺志部川上流の南支流の名。北見境の山から出て国鉄中越駅の対岸で本流に入る。トゥイマ・ルペㇱペ(tuima-rupeshpe 遠い・峠道沢)と読まれる。少し遠いが山越えの峠道でもあったのだろうか。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.102 より引用)
「トゥイマ」という単語をあまり目にすることが無かったのですが、確かに萱野さんの辞書にも tuyma で「遠い」とあります。そして、実際の地形も、トイマルクシュベツ川を遡っていって峠を越えると、支湧別川の源流部に辿り着くことができます。そして、このルートは北見峠と比べて遠回りです。

山田さんは「ルクシュベツ」を「ルペㇱペ」と解釈されていますが、これは ru-kus-i(路・通っている・所)と取るべきかもしれません。ということで、tuyma-ru-kus-i-pet で「遠い・路・通っている・所・川」でしょうか。

チトカニウシ山

chi-tukan-ni-us-i
我ら・射る・木・ある・所
(典拠あり、類型あり)
グルメにはチト堪らない名前の山ですが……(←)。なかなか面白い由来の地名なのですが、実は道内各所にあるらしいです。こちらも「北海道の地名」から。

 上川町と,北見の滝上町,白滝村の境になっている高山の名。チトゥカン(chi-tukan 我ら・射る)という言葉が地名に出て来るのは,狩猟等でそこを通る時に,特定の目標に矢を射って武運を占った処である。この地名の形から見るとチトゥカンニウシ(chi-tukan-ni-ush-i 我ら・射る・木・がある・処)つまり,そこを通る人たちが矢を放って運を占った大木があった処の名で,それがこの山の名となったのであろう。
(山田秀三「北海道の地名」草風館 p.103 より引用)
お見事です。これは異論を出しようもないですね。chi-tukan-ni-us-i で「我ら・射る・木・ある・所」でしょう。ちなみに引用文の中で「上川町と,北見の滝上町,白滝村の境になっている」とありますが、地図を見た限りでは滝上町とは接していないようです。

スプリコヤンベツ川

2022/3/26 の記事をご覧ください。

たまたま地図を眺めていて見つけたのでご紹介します(本邦初公開……かな?)。遠軽町(旧白滝村)を流れる湧別川の支流の「熊ノ沢川」の、更に支流にあたります。長さは 1 km ほどの短い川です。当然ながらソースはありません。

えーと、これは多分 supor-koy-an-pet で「激しい早瀬・波・ある・川」ということでしょう。なにしろたった 1 km で 100 m の標高をすべり落ちているのですから、かなりの急流であることは間違いなさそうです。

白滝(しらたき)

poro-so
大きな・滝
(典拠あり、類型あり)
つい「しらたき」と「マロニー」の違いを調べたりしてしまいましたが、それはさておき……。北見峠を越えて、遠軽町に入ったところです。かつては「白滝村」という村がありました。

由来について、「角川──」(略──)を見てみましょう。

網走地方中央南部,湧別川上流,および同川支流の支湧別川流域の山間に位置する。現字下白滝の湧別川に滝があり,白滝と称されていたことから,明治36年植民地設定の際白滝植民地となった。文政年間の間宮林蔵の蝦夷図には「ショー」(滝),安政5年の松浦武四郎「戊午日誌」には「ポロソウ」(大滝)の記述がある。
(「角川日本地名大辞典」編纂委員会・編「角川日本地名大辞典 1 北海道(上巻)」角川書店 p.724 より引用)
ということなので、この「白滝」は「非アイヌ語地名」と言うよりは、「アイヌ語意訳地名」と見るべきかもしれませんね。

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2012年8月24日金曜日

道東の旅 2011/春 (113) 「さまよえる関西人、東の果てへ」

ルック・イースト

納沙布岬の灯台(北海道で一番古い灯台なのだとか)を見終わったので、まずは車を観光客用の駐車場に移動させて……と。
はい。「本土最東端」の「納沙布岬」(根室市)にやってきました。基礎の部分には
「北緯 43度 23分 07秒 東経 145度 49 分01秒」と記されています。

百景でも八景でもなく

隣にはこんなものも。
「根室十景」なのだそうです。「百景」でも「八景」でも無いのがいいですね。

いろいろありました

そしてそして……。段々こういった看板?が増えてきます。
こんなのとか、
こんなのとか、
こんなのとか。いずれも新しそうに見えるのが不思議でもあり、また、実際は決して新しいものでは無いのだとしたら、その見事な維持ぶりには感心します。

北方領土……

少し向こうに岬の灯台が見えます。
そして、この写真もよーく見ると……
ちょっと下の方が隠れてしまっていて、何と書いてあったか不明です。「奪」という字にも見えますね。

蟹のお味噌汁です

というわけで、ここ納沙布岬は、他の岬(宗谷岬とか襟裳岬とか)とはちょっと違った空気が流れていたりします。もちろん、
こんな風に、地元自慢の「てっぽう汁」を振る舞ってくれるふつーのお店もあるんですけどね。

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2012年8月23日木曜日

道東の旅 2011/春 (112) 「願掛けは韻を踏んで」

願掛けは韻を踏んで

納沙布岬は「北海道最東端」である以上に「北方四島への玄関口」としての位置づけが強いようで、たとえばこのような、
「祈願 北方領土奪還」と刻まれた石碑が建てられています。実は、このような石碑は一つ二つではなく、かなり沢山の存在が確認できるのですが、その中からこの石碑を紹介しているのは……
横から見るとモアイに見えるから……ではなく、こちらです。
そう、石碑のまわりをたくさんの「かえる」が囲んでいるのです。前から見るとこんな風に。
完全に円ができるまでにはなっていませんが、もしかしたら毎年増えて……といった予定があるのでしょうか。重い話なのに、なんだかちょっとほっこりしてしまいます。

潮風に吹かれて

こんな標柱もありました。
寄ってみたのですが、木でできた標柱が潮風に吹き曝しなので、表面が朽ち果ててしまって何が書かれていたかを読み取ることはできませんでした。

そしてそのまんま

では、いったん車に戻って、観光客用の正規の駐車場まで移動しましょう。
観光客用の駐車場のあたりには、土産物屋さんが何軒か点在しています。
このあたりは「てっぽう汁」(蟹汁)も有名なのですが……ふと目の前の店を見てみると。
確かに、ここは北海道の「東の果て」ですからねぇ……。

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