2012年7月18日水曜日

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道東の旅 2011/春 (87) 「地形の変遷を追う」

 

地形の変遷を追う

さてさて。現代の「春国岱」は、地形図で見るとこのような形をしています。
この三列の砂丘は、それぞれ数千年に亘って形成されたものですが、実は、数十年レベルでも地形に結構な変動が見られるのだとか。

というわけで、次なる展示ですが、「春国岱-人のくらしと自然の移り変わり」として、明治期から現代までのおよそ百年間の変遷を地形図ベースで追っています。……これは面白そうです!

明治の頃

一番左は、明治 30 年製版の「風蓮湖」という地図です。説明文を引用してみましょう。

明治~大正の頃、重要な陸路として根室から春国岱を経て、羅臼にぬける海岸沿いの道があり、春国岱と走古丹の間(約 400 m)の人馬の往来は、渡船によるものでした。明治10年代には、駅逓所が設けられ、旅行者の宿泊や乗馬などの便宜がはかられました。
また、第1砂丘に番屋がならび、とれた魚(ニシンが中心)はほとんどが魚粕(肥料)にされたそうです。ヒグマが出たのもこの頃で、春国岱に当時たくさんあったヤマブドウを食べに渡ってきたそうです。オオカミの出没も同じ頃だそうです。なお、ヒグマは昭和20年に目撃されて以来記録がありません。
(春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター内展示パネルの説明文より)

大正の頃

次が大正 11 年測図のものです。

明治の末、第1砂丘先端の一部が高潮によって分断されたため、一度第二砂丘に渡ってから遠太へ行く迂回路が使われました。
その際、新川に橋がかけられましたが、後に焼け落ちたと言うことです。市内在住のあるお年寄りが伝え聞いたという話によると、「昼日中に浮浪者が橋のたもとで焚火をしていてそのまま寝てしまい、焚き火の火が橋に引火して焼けてしまった」のだそうです。
(春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター内展示パネルの説明文より)
これはまた……。あまりに興味深いので全部引用してしまっていますが、権利上の問題がございましたらご連絡をお願いします!

「遠太」は「えんた」ではなく「とうぶと」と読むのですが、これは to-put で「沼・口」という意味ですね。風蓮湖の開口部として、これほど相応しい地名は無いでしょう。

昭和初期の頃

続いては、昭和 11 年測量のものですが……

春国岱の森は、「明治天皇の皇后陛下の山」として、木一本たりとも伐ることを許されなかった神聖なところで、原生保安林でも最高の格式のある山林だったそうです。しかし、戦時中に一度伐採されたことがあり、馬ソリで木材を運ぶためにつけられた道の一部を、現代は自然観察路として利用しています。
(春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター内展示パネルの説明文より)
ふーむ、「明治天皇の皇后陛下の山」というのも不思議な感じがしますね。「明治天皇の皇后陛下」というのは「昭憲皇太后」のことのようですが、Wikipedia の記事を見る限りでは、特に「春国岱」との関係を覗わせる逸話は見当たりません。

昭和中期の頃

昭和 52 年改測図では、

地盤の沈降による面積の縮小と湿地化が進み、現在の春国岱にほぼ近い地形となっています。
(春国岱原生野鳥公園ネイチャーセンター内展示パネルの説明文より)
ということで……なるほど、中長期的に見て地盤が沈降傾向にあるというのは、野付半島と似たような感じですね。「湿地化が進み」というのは少々解せない話ですが……。

スンク・ニ・タイ

ちなみに、今更ですが、「春国岱」は「しゅんくにたい」と読みます。先ほどのパネルをよーく見てみると、右上の方に……
「春国岱の語源」が記されています。

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