2012年3月31日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (22) 東京 (1878/6/7)

1878/6/7 付けの「第四信」より、「伊藤少年大いに語るの巻」(←)をお届けします。

伊藤の第一印象(続)

通訳 兼 召使いの人選に苦心していたイザベラのもとにやってきた伊藤少年でしたが、その登場の仕方は決して颯爽としたものではなく、むしろその真逆のものでした。

彼は、年はただの十八だったが、これは、私たちの二十三か二十四に相当する。背の高さは四フィート一〇インチにすぎなかったが、がにまたでも均整がよくとれて、強壮に見えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46-47 より引用)
とりあえず、外見面ではイザベラの毒舌も控えめだったようです。4 フィート 10 インチと言うと、Google さんによれば約 147.3 cm ということだそうで。確かに昔の人は小柄でしたが、伊藤少年はその中でも小柄な方だったようですね。

顔はまるくて異常に平べったく、歯は良いが、目はぐっと長く、瞼が重くたれていて、日本人の一般的特徴を滑稽化しているほどに思えた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.47 より引用)
はい(笑)、イザベラ姐さんの調子が上がってきたようです。……でも、一概にイザベラの毒舌を責めるのもお門違いで、言われてみれば日本人はみーんなこんな顔のような気もします。

私はこれほど愚鈍に見える日本人を見たことがない。しかし、ときどきすばやく盗み見するところから考えると、彼が鈍感であるというのは、こちらの勝手な想像かも知れない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.47 より引用)
イザベラの観察眼は相変わらずの鋭さを見せていますね。実際の所、この伊藤少年はかなりのやり手で、抜け目ない性格だったようです。イザベラから見た(従って 100% 事実であるかどうかは不明ですが)伊藤少年の所行の数々は、この後何度か描かれることとなります。

彼の言うところでは、米国公使館にいたことがあり、大阪鉄道で事務員をやったという。東のコースを通って北部日本を旅行し、北海道(エゾ)では植物採集家のマリーズ氏のお伴をしたという。植物の乾燥法も知っており、少しは料理もできるし、英語も書ける。一日に二十五マイル歩ける。奥地旅行なら何でも知っているという。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.47 より引用)
えー、25 マイルは、約 40 km なのですが、それはさておき。「彼の言うところでは──」という書き出しに、イザベラの伊藤少年に対する疑いの目がアリアリと出ていますね。ただ、仮にこういった経歴の数々が全部デタラメだったとしても、こういった雇い主が喜ぶであろう経歴を並べてくるあたりは徒者ではありません。そう、この少年は抜け目が無いだけではなく、なかなかに優秀な人物なのですね。

この模範的人物を気どった男は、推薦状を持っていないのを「父の家に最近火事があって、焼いてしまった」と弁解した。マリーズ氏は手近にいないので、聞くわけにもいかなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.47 より引用)
この推薦状を紛失した経緯についても、いかにも胡散臭いのですが、さりとてイザベラは確かめるすべを持たないわけです。ここまできっちり計算して話を組み立てているのだとしたら、これはなかなかの傑物です。

それよりもまず、私はこの男が信用できず、嫌いになった。しかし、彼は私の英語を理解し、私には彼の英語が分かった。私は、旅行を早く始めたいと思っていたので、月給十二ドルで彼を雇うことにした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.47 より引用)
イザベラが伊藤少年のことを「信用できない」「嫌い」と感じたのはごもっともです。ただ、この胡散臭いこと極まりない伊藤少年は、英語力の面ではイザベラのお眼鏡に適う実力の持ち主だったようで、それが幸いして無事採用されることとなります。

まもなく彼は契約書を持って戻ってきた。その書類には、約束の給料に対して神仏に誓って必ず忠実に仕える、と書いてあった。彼はそれに印を押し、私は署名した。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.47 より引用)
この契約書を、一体誰が作ったのだろうかという疑問も出てくるのですが、とりあえず伊藤少年は契約書に捺印し、イザベラは契約書にサインしたのでした。雇用関係の成立です。そして……

次の日に彼が一カ月の給料の前払いをしてくれというので私は払ってやったが、ヘボン博士は、「あの男は、二度と姿を見せないかもしれないね」と私を慰めるようにして言った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.47 より引用)
抜け目の無い伊藤少年は、いきなり給料の前払いを依頼してきたのでした。気っぷのいいイザベラ姐さんは、伊藤少年に 12 ドルを前払いしてしまいます。給料を前払いしてもらって意気揚々と立ち去った伊藤少年。果たして彼はイザベラの元へ戻ってくるのでしょうか!? 緊迫の続編は……またそのうちに。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年3月30日金曜日

道東の旅 2011/春 (30) 「きのこの里とたけのこの山」

まずは遠軽方面に

旭川紋別道の(現時点での)終点、「丸瀬布 IC」を出て、国道 333 号を遠軽方面に向かいます。
なんか、その……。いかにも道東っぽい雰囲気の道路になってきました。鬱蒼としているわけでもなく、さりとてポツンポツンと言うにはちょっと多い数の木が並んでいる、なんかそういった印象が……。
左折すれば遠軽の中心部、そして紋別に行くことができます。まっすぐ行けば端野、そして留辺蘂に向かいます。
あれ? 「端野」ってどこだっけ……。ちなみに、現在地はこのあたりです。


端野は、どうやら現在は北見市となっているようですね。ここから東のほうにあるようです。留辺蘂は南の方ですね。

命令ではなくて願望

そして、この交差点には、こんな看板も……
命令形の「かえせ」ではなくて、願望を表す「かえれ」というところがなんだか穏健でいいですね、遠軽青年会議所さん。

「たけのこの山」もあるのか?

ここからしばらくは、湧別のほうからやってきた国道 242 号と、国道 333 号の重複区間です。
うーん、どこかで見たことがあるようだけどちょっと違う……。「たけのこの山」も近くにあったりするのでしょうか。

端野・佐呂間方面へ

などと馬鹿なことを考えていると、国道 242 号と国道 333 号の重複区間が終了です。
まっすぐというか左に寄るというか、引き続き国道 333 号を端野・佐呂間方面に向かいます。

国道 333 号は、相変わらず人家の気配の無いところを走っているのですが……お、この案内は「自動車専用道路」の予告ですね。
なにやら立派な築堤が見えてきました。このまままっすぐ進むと自動車専用道路で、バイク・自転車・歩行者はこの先を左折しないといけません。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年3月29日木曜日

道東の旅 2011/春 (29) 「丸瀬布」

若葉のころ

北見紋別道の浮島 IC のあたりには、思った以上に雪がたくさん……。
そして、ここからしばらくは追い越し車線があるのですが、頭上には「スリップ注意」の文字が……。うー、もう 5 月だと言うのに。First of May だと言うのに。

日本海側からオホーツク海側へ

今度は 4 千メートル級のトンネルが見えてきました。分水嶺を突っ切る「北大雪トンネル」です。
「北大雪トンネル」を抜けると、そこはもう遠軽町です。湧別川の源流のあたりで、ここからは降った雨はオホーツク海に注ぎ込むことになります。

お仕事ごくろうさまです

「除雪車 待避所に付 駐停車禁止」と書かれたところに止まっている車がありますが……
巡回ごくろうさまです。道路設備をパトロールする車は法定速度を上回って走ることが無いので、なぜか(←)後ろに車の列ができるのですが、こうやってこまめに路側に寄ってくれるのでありがたい限りです。いつもありがとうございます。

丸瀬布に到着

道路脇には相変わらず(この時期にしては)たくさんの雪が残っています。
下白滝駅のあたりの隘路を「白滝トンネル」で抜けると……
「丸瀬布大橋」という高架橋にさしかかります。
「丸瀬布」と書いて「まるせっぷ」と読むのですが、このあたりにはかつて森林鉄道があって、そこで活躍した蒸気機関車が今も保存されている……といった話があったような気がするのですが、どうだったかなぁ(←

終点です

さて、現在の所、その「丸瀬布 IC」で旭川紋別道はおしまいです。
おつかれさまでしたー

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年3月28日水曜日

道東の旅 2011/春 (28) 「春なのに~」

回る川の本筋

旭川紋別道の「上川層雲峡 IC」から先は、未踏のエリアです。さて、前方にトンネルが見えてきましたが、その手前に高架橋があるようです。
「チカリベツ橋」とありますね。カナ表記の下にはローマ字で "Chikaribetsu Bridge" とあります。……これは無いものねだりなんですが、アルファベット表記だけでもアイヌ語に復元してみたいものですね。Si-kari-pet みたいに。

カール・マルクスがこの辺のぬかるみで足を滑らして……

この先に見えるトンネルは「なかこしトンネル」と言うみたいです(……なんでひらがななんでしょうね。あ、「中越」だと「ちゅうえつ」と読まれてしまうからか)。長さは 3 km 以上ある、ちょっとした長大トンネルですね。
そして、そのトンネルのすぐ手前にも橋があって、
ご丁寧にも橋の名前が記されています。「トイマルクシュベツ橋」とありますね。気になる意味ですが、このあたりにはカール・マルクスが来日したとの伝承があって……(もちろんウソです)。

これは真剣な話ですが、おそらく元々は「トイマルクシュ」ではなくて「トイマクルシュ」ではないかと思います。どこかで誰かが転記ミスというのは良くある話です。

涙は……こぼれませんでしたが

さて、「なかこしトンネル」を抜けると……なにやら路側に雪が見えてきましたよ!!(春なのに~)
「なかこし」の次は「かみこし」です。
こちらは 1 km ちょいですから、それほど長いわけではありませんね。

Taki Inoue

「かみこしトンネル」を抜けると「浮島 IC」です。
ここからは、国道 273 号が北に延びていて、これまた 3 km 近いトンネルを抜けると「滝上町」です。むかーしむかし、国鉄渚滑線というローカル線が、「渚滑」から「北見滝ノ上」まで伸びていました。

「渚滑」もちょっと読めないですが、これで「しょこつ」と読みます。

そんなわけで、「浮島 滝上」の文字の下に "Ukishima Takinoue" と書いてあるのですが、これを見て某・元レーシングドライバー氏を思い出してしまったりして。

5 月の北海道は寒かった

「北見紋別道」には、ところどころに追い越し車線が用意されています。
なーんか、今にも雪が降りそうだなぁ……と思っていると、
げ! いつの間にか気温が 2 度まで下がっているではありませんか。さすが亜寒帯気候の山間部、5 月でもふつーに雪が降る(可能性がある)ってことなんですね……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年3月27日火曜日

道東の旅 2011/春 (27) 「天幕」

新直轄方式の光と影

「旭川紋別道」は、新直轄方式という仕組みで建設されたので、通行料はずーっと無料です(最初から料金所も設けられていない)。これはまぁ嬉しい話なのですが、その弊害?として、PA や SA などが存在しません。そのため、トイレに行きたくなった時に困るのですが、これにも答えがありまして……。

ええ、一部の IC にはパトロール基地などが併設されているので、そこでトイレを借りれば良いのです。というわけで……
「上川層雲峡 IC」で一旦流出します。そもそも通行料がかからないので、途中で何度流出しようがお値段そのままなのが嬉しいですね。

ありがたく使わせていただきます

何やら「除雪基地」のような建物が見えてきました。捨てられた雪らしきものもありますね。
というわけで、車を停めて……
はい、ありがたく使わせていただきます(ぺこり)。おやおや、これはまた随分と立派な建物で……。
それでは、ふたたび紋別に向けて出発です。

ここが「天幕」

ちょうど「天幕」のあたりに差し掛かったので、車窓をパチリ(死語)と。
このあたりには JR の石北本線が走っていて、「天幕駅」という駅がありました(石北本線自体は今も健在ですが、「天幕駅」は 2001 年に廃止されています)。

天幕駅(てんまくえき)は、北海道上川郡上川町字天幕鉄道用地に存在した北海道旅客鉄道(JR北海道)石北本線の鉄道駅。周辺が無人地帯となり、利用者皆無となったため、2001年(平成13年)7月1日に廃止された。
(Wikipedia 日本語版「天幕駅」より引用)
「周辺が無人地帯となり、利用者皆無となったため」というのがなかなかグッと来る理由なのですが、JR 北海道の場合、少なからずこういったケースがあるのですね。で、何故に「天幕」だけを特別視するのかと言えば……

駅名の由来
石北本線を敷設するための調査を行っていた鉄道建設部長の田辺朔郎(琵琶湖疏水を設計した技術者)が、この付近で寝食の世話をしてもらった天幕三次郎という人物に感謝の意を込めてこの駅名をつけたといわれている。
(Wikipedia 日本語版「天幕駅」より引用)
という話を(若かりし頃に)何かの本で読んだのを記憶していたものでして。そうか、石北本線のフィールドワークも田辺朔郎だったんですね。引用部にも記してあるように、田辺朔郎は琵琶湖疎水を設計した優秀な土木エンジニアで、根室本線のルート選定にも携わっていたと記憶しています。

で、「天幕さんに世話になったから、ここは『天幕』と呼ぼう」なんて呑気な?ことが通用したのは、当時から人跡未踏……とまでは言わないものの、ほとんど人通りの無いところだったのでしょうね。めぼしい資源も無かった、ということなのでしょう。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年3月26日月曜日

道東の旅 2011/春 (26) 「愛の別れへは右折を二回」

当麻町から愛別へ

当麻町の国道 39 号線を北見方面に向けて進みます。
う、ここからは対面交通ですね。

道路異常を発見したら

片側一車線の道が続きます。
しばらく走っていると……お、何やら案内板が見えてきました。
はい、旭川紋別道の「愛別 IC」まで約 6 km のようです。「愛別」という地名は何となくフリッツ・クライスラーを連想させますね。しませんか。そうですか(←

なぜここにインターを作らない!(児玉さん風に)

そして、その「旭川紋別道」が見えてきました。
どうせなら、ここにインターチェンジを作ってくれたらいいのに(ぼそっ)。

こんなところにありました

さてさて。愛別町の中心地にほど近いところにやってきました。IC に向かうにはここを右折のようです。
せっかくなので地図もつけておきましょう。


はい。察しのいい方はお気づきかと思いますが、国道 39 号と旭川紋別道が立体交差するところにインターチェンジを作ってしまうと、旭川から国道 39 号を走ってきたトラフィックが愛別町の中心地を通ること無く旭川紋別道に流入できてしまいます。これは面白く無い! ということで、インターチェンジの位置をシフトさせた……というのも、30% くらいは理由に含まれそうな気がします。

右です

さて、右折した後、このまま真っ直ぐ進むと「愛別駅」に行き当たってしまうので、再度右折ですね。
何ともこぢんまりとした案内ですね……。

アイペット?

愛別 IC で旭川紋別道に合流です。
「アイペット橋」という名前が見えますね。「愛別」の語源のように見えますが、そういえば「愛別」の由来ははっきりしなかったのでした。簡単そうな地名に限って、正しく意味が伝わってなかったりするのですよね。

寒そうに見えますが

旭川紋別道は、暫定片側一車線の自動車専用道路です。
北斜面には雪が残っていますね……(ゴールデンウィークなんですが)。どれだけ寒いのだろう……と思って確かめてみたのですが、
この車の外気温センサーを信じる限り(たまーに頓珍漢な温度を返してくるので要注意なのですが)、路面の凍結などは心配することは無さそうです。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年3月25日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (21) 東京 (1878/6/7)

今日も引き続き、イザベラさんちの面接模様を見ていきましょう(手を抜いてみた)。

召使を雇う(続)

というわけで、通訳兼召使いを求人中のイザベラさん、「日本のダンディ」は願い下げでしたが、有力候補はあと二人残っています。

 次はたいそうりっぱな顔つきの男で、年齢は三十一歳、良い和服を着ていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46 より引用)
「良い和服を着ていた」という時点でイザベラさん的にはポイントアップしたのでは、と思わせますね。さてさて……

彼はしっかりした推薦状をもっており、彼の話す英語は、初めのうちは期待がもてた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46 より引用)
ふむふむ。「初めのうちは」期待がもてた……ですか。ということは……

しかし彼は、金持ちの英国人の官吏に仕えて料理人をやっていたが、この英国人は、大勢のお伴を連れて旅行し、旅先には前もって召使いを派遣して準備をさせていた。彼は、実際には英語をほんの少ししか知らなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46 より引用)
なるほど。彼は腕の立つ「料理人」ではあったけれども、召使いでは無く、通訳としての力量もびみょうだったのですね。まぁ、ありがちな勘違いだったのでしょうが、幸いなことに、

私の旅には男主人(マスター)がいないこと、女中もいないだろうと聞いて、彼は非常にびっくりし、彼が私を断ったのか私が彼を断ったのか分からぬほどであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46 より引用)
というわけで、「求人のミスマッチ」にお互い気がついたみたいです。まったくなによりですね。

次に登場するのが……

 三番目はウィルキンソン氏がよこした男で、質素な和服を着ており、率直で知的な顔をしていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46 より引用)
「質素な和服」を着ていて「率直で知的」な顔をしていたというのは、ともすれば上から目線になりがちな(←)イザベラさんにしては、かなりポイントの高い描写であるように思えます。

ヘボン博士が日本語で彼と話したが、彼は他の連中よりも英語を知っていると信じており、「こんなにあがらなければ、知っていることも口から出るのだが」と語っていた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46 より引用)
ここは少々解釈が分かれるところですね。彼は知的で有能である反面、やや自信家のきらいがあったのかも知れません。何事にも控えめなところがある日本人としては珍しいタイプでしょうか。

明らかに彼は私の言うことを理解しており、「後で彼が男主人(マスター)になってしまうのではないか」という懸念はあったが、非常に好感のもてる気がしたので、もう少しで彼を雇うところであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46 より引用)
少なくとも、語学力についてはイザベラも認めていたようですね。ただ、あまりに才気盛んであるが故に「召使い」とするにはちょっとリスクがあるかも? と考えたようです。

他の連中は、一人として語る値打ちはない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46 より引用)
このバッサリ感、さすがはイザベラ姐さんですね(笑)。

伊藤の第一印象

というわけで、イザベラによる三人の「有力候補」評を見てきたわけですが、最後の才気あふれる男が最有力であるように見えました。しかしながら、「もう少しで彼を雇うところであった」とある通り、彼もイザベラに「通訳兼召使い」として雇われることは無かったのでした。そして、この閉塞した状況の中……

 しかしながら、私が彼に決めかけていたとき、ヘボン博士の召使いの一人と知り合いだという、なんの推薦状も持たない男がやってきた。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.46 より引用)
「なんの推薦状も持たない男」の登場です。ようやくフラグが立った感じですね!(←) そう、この怪しげな男こそ、後に「通訳の名人」「通弁の元勲」などとも賞賛された(本当かな?)、若き日の「伊藤鶴吉」少年だったのでした。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年3月24日土曜日

「日本奥地紀行」を読む (20) 東京 (1878/6/7)

引き続き 1878/6/7 の「第四信」を見ていきます(本来は「第六信」でした)。

召使を雇う

前のセンテンス「中国人の買弁」は、普及版の「日本奥地紀行」ではバッサリとカットされていましたが、ここからの「召使を雇う」は、普及版にもしっかりと収められています。では、見ていきましょう……。

 数人の新しく知り合いになった人々が、召使い兼通訳という《私にとって》重大な問題について、親切にも心配をしてくれた。多くの日本人が、その職を求めてやってきた。英語をよく話せることが、必須条件である。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.44 より引用)
はい。イザベラは、北海道まで召使い兼通訳を一人帯同しようと考えているようです。条件はもちろん「英語をよく話せること」ですね。

応募者たちが、発音が下手で、さらに単語をでたらめにつなぎあわせて、それでも十分な資格があると考えているのには恐れ入った。「英語が話せますか」。「イエス」。「給料はどれほど欲しいのですか」。「一月に十二ドル」。これはいつもぺらぺらにしゃべるので、どの人の場合も希望がもてそうな気がした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.44-45 より引用)
なかなか手厳しいことが書かれていますね。当時は高等教育の場で英語を学ぶことも無かったでしょうし、そもそも「高等教育」自体も存在しなかったでしょうし。何かのきっかけで外国人の家に住み込みで働くことになって、耳と口で英語を覚えた……というのが大半だったのでしょうね。

「今まで旅行したところはどこですか」。この質問は、いつも日本語に訳してやらなければならなかった。返事はいつもきまっていた。「東海道、中山道、京都、日光」。いずれも多くの旅行者がよく出かけるところである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.45 より引用)
なかなか興味深い答えが返ってきますね。多くの場合、これらの旅行先は、以前の、または現在の「ご主人様」の旅行に随行した、ということなのでしょう。京都や日光は当時から外国人に人気があったことを覗わせます。

「北部日本や北海道について何か知っていますか」。「ノー」と気の抜けた顔をして答える。いつもこの段階まで来ると、ヘボン博士が同情して通訳をかって出る。彼らの英語力は底をついてしまうからである。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.45 より引用)
なんだか光景が手に取るように見えてきますね(笑)。助け船を出してくれるヘボンさんは本当にいい人です。

さて、こんな頭を抱えたくなるような面接を続けていても、中には「有力候補」が出てくるもののようで……。

 三人だけ有望に思えた。一人は元気の良い青年で、明るい色のツイード地で仕立ての良い洋服を着てやってきた。カラーは折襟で、ネクタイにはダイヤ《?》のピンをつけ、白いシャツは糊のよくきいた固いもので、ヨーロッパ風の浅いお辞儀すら身をかがめてできそうもなかった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.45 より引用)
イザベラの文章は、栄えある大英帝国の女性らしく、ところどころに「英国風」の筆致が見え隠れするのですが、これなんかもそうですね。「浅いお辞儀すら身をかがめてできそうもなかった」というのは、とてもシニカルな表現です。いやまぁ、本当にそうだったのかもしれませんが(笑)。

金めっきの時計鎖にはロケットをつけ、胸のポケットからは真っ白な上質カナキンのハンカチをのぞかせ、手にステッキとソフト帽をもつといういでたち。この第一級の日本のダンディを見て、私はぞっとした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.45 より引用)
むむむ……。ひたすら元気良く「ゲッツ!」を繰り返していたのでしょうか(←

こんなりっぱな洋服を着て奥地へ出かけたら、いたるところで物価を高くされるであろう。さらに、このような見栄坊に下男の仕事を頼もうとすると、いつも難儀するにちがいない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.45 より引用)
あははは(笑)。いやいや、まったくご尤もなご指摘です。でも、事前にこういった予測ができるという点については、イザベラはさすがに旅慣れているなぁーと感じさせますね。

そこで私は、この男が第二の質問を受けて、はたと英語が口から出なくなったとき、まったくほっとした。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.45-46 より引用)
はい。この時点でダンディはあえなく消え去ることが確定したのでした。緊迫の?選考プロセスはまだまだ続きます!

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International


2012年3月23日金曜日

道東の旅 2011/春 (25) 「ご覧のスポンサーの提供でお送りします」

北海道っぽい

旭川市の中心部から、国道 39 号を北東に進んでいると……
「山岡家」だったり、
「オカモト セルフ」だったり、
北海道ではセイコーマートなみの露出度を感じる「ツルハ」だったり、なんとなーく「北海道っぽい」お店がたくさんあって嬉しくなります。

あらこんな所に大学が

宗谷本線の「永山」を少し過ぎたあたりには
「旭川大学」がありました。北海道には意外なところに大学があったりするものですが、星槎大学を上回る立地は見たことが無いですね……。

そうかこの辺は道北なのか

このあたりを走る路線バスは……
「道北バス」のようです。なるほど、既にエリア的には「道北」なんですねー。

大御所の登場

やがて旭川市を抜けて、お隣の「当麻町」に入ります。
少しお店の数も減ってきたかな? という印象を受けたりもしたのですが、
おおっと、ここで大御所の登場です(笑)。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International