2012年2月12日日曜日

「日本奥地紀行」を読む (9) 横浜 (1878/5/22)

引き続き、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」を読み進めます。本日は 1878/5/22 付け「第二信」の最後の部分です。

車引き

「日本奥地紀行(普及版)」ではカットされた「にじんだ文字」のあとは、「車引き」というセンテンスが続きます。

重い荷物を積んで坂を登るときには、きれいに剃った厚ぼったい頭を動力に用いる。彼らの叫び声は、物さびしく印象的である。彼らは信じ難いほどの荷物を運ぶ。一息ごとに呻いたり喘いだりしても思うようにゆかない重荷のときには、彼らは絶え間なく荒っぽい声を喉からうなり出す。「ハーフイダ、ホーフイダ、ワーホー、ハーフイダ」と叫んでいるようだ。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.34 より引用)
大八車の車夫の生態(というと生々しいですが)に触れています。普及版では、この文章で「第二信」が終わっているので唐突に感じるのですが、やはりと言うべきか、この後に続く文章がカットされていたようでした。

諸外国の意見を考慮した譲歩、諸規則

「日本奥地紀行」の初版では、「諸外国の意見を考慮した譲歩、諸規則」と題して、次のような文章が続いていました。

 この光景の印象から推すに、人的労働力が安価で豊富ということです。政府は、当地でも他の都市でも裸体に対する罰則を作りました。これらの気の毒な車夫たちは、とりあえず不便な船頭と同じ仕事着を着ています。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.29 より引用)
この後でも何度か話題に上るのですが、当時のガテン系の男の人は上半身裸で仕事をすることに慣れているようでした。しかしながら、野蛮な、あるいは未開な印象を与えることを政府が嫌い、「半裸での仕事はダメ」というお達しが出た、ということのようです。

この「お達し」について、イザベラは次のように自説を開陳しています。

私の推測では衣類の着用の強制は外国人の世論に譲歩したものと思います。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.29 より引用)
当時の日本にやってくる外国人は、外交官を初めとしたいわゆる「上流階級」の人たちが多かったことでしょうから(他ならぬイザベラもそうでしょうし)、あまり「刺激的」な眺めは好まなかった、ということなのでしょうね。

一方で、イザベラは当時の日本が良く統治されていることを賞賛するかのごとく、次のようにも記しています。

私の第一印象では、この国はよく統治されているということです。上陸した人は「規則」に出会います。小型平船(サンパン(ズ))と人力車(クルマ(ズ))の定められた料金、掲示板の注意書き、こざっぱりした警官、乗り物の提灯、外国貨幣の拒否、掲示板の注意書き、その他多くのことがらです。そして、それを言わなければならないでしょうか──それは法外な罰則がないのにそうなのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.29 より引用)
この一節も「普及版」ではバッサリと削られているのですが、これは「第一信」での内容とも重複するので、削ってしまって問題ないだろう、という判断に至ったものと思われます。この時点でイザベラは、明治初頭の日本では高いレベルで秩序が保たれていることに感心しつつ、車夫たちの過酷な肉体労働の実情にショックも受けていた、ということなのでしょうね。我々は、イザベラの飾らない筆致のおかげで、彼女の困惑を追体験できている……といったところかも知れません。

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