サー・ハリー・パークス
イザベラは、北へ旅立つ前に横浜に滞留して、いろいろと旅の準備をします。何しろ道中の通訳すら決まっていないのですから、いますぐ旅立つわけにはいかないわけです。今日は、新しい知り合いができたり、召使いや馬を探し始めたり、質問をしても異なった人々から全くくいちがう返事をもらったりして、一日が過ぎてしまった。ここでは、仕事をやる時刻が早い。正午までに十三人の人々が訪れてきた。婦人たちは小さな馬車に乗って町を走り回る。馬車は馬が引き、ベットー(別当)と呼ばれる馬丁が走りながらお伴をする。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.32 より引用)
ふと気になったんですが、当時の日本には「標準時」ってあったのでしょうか。今の日本の標準時は、ご存じの通り東経 135 度線がベースなので、それよりも随分と東に位置する横浜では、日の出も日の入りも早い筈なのですよね。そして、文明開化の音がする明治の初頭においても、人力車だけではなく馬車も広く使われていたのだなぁ、ということが見て取れます。そういえば、昔の「大阪市電」を牛が牽く写真を見たこともありました。馬が客車を牽く「馬車鉄道」なんてものも、この後普及することになりますね。
外国商人はクルマ(人力車)を持っていて、いつも玄関先に置いておき、忠実で利口そうな車夫をつけておく。この方が、なまけもので気まぐれな小さい日本の馬よりも、ずっと役に立つ。私は今日拝見したのだが、「特命大使兼全権公使」の威厳をもってしても、このように卑しい乗り物を用いざるをえない。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.32 より引用)
ここでいう「特命大使兼全権公使」というのが、サー・ハリー・パークスのことです。今日最後に私を訪れた客はサー・ハリー・パークス夫妻で、部屋に陽気と温情をもたらし、それを残して去った。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.32 より引用)
「大使の乗り物」
少々略して続きを。公使夫妻は、私にとても親切にしてくれて、奥地旅行という私の最大の計画を心から励ましてくれるので、私は召使いを手に入れたら、すぐにでも出発したいと思う。夫妻は私にいとまを告げて、クルマにとび乗った。英国を代表する人物が、車夫を二人縦に並ばせ、乳母車のようなものに乗って街路を急いで去って行く姿は、とても面白いものであった。
(イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.33 より引用)
イザベラの「奥地紀行」がイギリスの国益に適うものであったことは周知の事実で、だからこそ惜しみなく公的な支援が注がれたということになろうかと思います。ここでいう「クルマ」はもちろん人力車のことですね。人力車の方が「気まぐれで小さい日本の馬よりもずっと役に立つ」というのは酷い話ですが……。www.bojan.net
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