2011年12月31日土曜日

写真で振り返る 2011 年(←

写真で振り返る 2011 年(←

しれーっと「ホテル探訪」で年末を締めるのもアリかと思ったのですが、いくらなんでもそれもどうだろ? と思い直して、ネタ企画で締めたいと思います。今年撮影した写真をピックアップして簡単なコメントをつけるだけ……というお手軽企画です。ではさっそく参りましょう。

1 月

今年の正月はルスツで迎えたのでした。この写真はご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんね。

2 月

仕事で松本に行きました。北アルプスの山々を毎日眺めて暮らすというのも、結構な贅沢ではないかなぁ、などと思いました。

3 月

忘れもしない震災の日も、たまたま出張に出ていました。これがどこの写真かわかる人は……いらっしゃるのでしょうか(汗)。

4 月

この月は仕事でもプライベートでも外出の少ない月でした。信貴生駒スカイラインから眺めた奈良盆地の写真です。

5 月

ゴールデンウィークはまたしても北海道へ。厚岸で生牡蠣をごちそうになりました(^^)。

6 月

この月は仕事で九州に行きました。「さくら」と「つばめ」の両方に乗ることができました。

7 月

新装なった大阪駅の写真です。恐ろしく屋根が高い構造には賛否両論あるようですが、個人的には好きですね……。

8 月

言わずと知れた隠岐の島の写真です。岩倉の乳房杉ですね。

9 月

ラスベガスのホテル「パラッツォ」の写真です。旅の詳細はまたいずれ。

10 月

この月は転職に向けて動きまくっていた月なので……外出の少ない月でした。これは大江橋から見た堂島川の夜景です。

11 月

会社を移って東京暮らしになりました。一度行ってみたかった東京アクアラインの「海ほたる」の写真です。

12 月

寒い間は雪のないところを回りましょう、ということで「犬吠埼」に行って参りました。

というわけで

今年も、多くの方々にご覧いただき本当にありがとうございました。おかげさまで今年も連続更新を続けることができました(今日で 1233 日連続)。来年もこの調子でだらだらと続けていきたいと思いますので、引き続き生暖かい目でご覧いただけますと幸いです。m(_ _)m

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2011年12月30日金曜日

Bojan のホテル探訪~「ホテル隠岐」編

Bojan のホテル探訪~「ホテル隠岐」編

はい。毎度おなじみ「ホテル探訪」の時間がやってまいりました。本日お邪魔するのは「ホテル隠岐」という、これまた「でっかい名前」のホテルなのですが……。
写真を見た限りでは、割とこぢんまりとした雰囲気です。ちなみに、隣には
寿し・和食のお店もあります。

それが問題だ

さて、この「ホテル隠岐」に到着して、いきなり難題にぶち当たりました。それは……入り口がわからなかったのですね(汗)。答えをお見せしますと、
ここが正面玄関でした。うーん、なんとも奥床しい構造ですね。

見た目と中身は大違い

急いでチェックインを済ませると、部屋まで荷物を運んで案内してもらえました。
一見、まるでアパートの一室のような入り口ですが、中に入ると……
思いっきり和室です。しかも
窓際が別室になっていてソファーセットがあるという、なんだか懐かしい構成の部屋です。そう、昔……とは限りませんが、「旅館」ってこんな感じの部屋が多くなかったですか? 個人的には、とっても懐かしい作りの部屋です。

旅館のようでビジネスホテルのようで

そんなわけで、名前は「ホテル」なのに作りはまるで旅館……と思ったのですが、
バス・トイレはビジネスホテルのような作りです。これは助かりますね。
バスのサイズは小さすぎず大きすぎず。まぁ、もうちょっと大きい方がゆったりできて好きなんですけどね。
シャンプーとボディソープはボトルタイプのものが用意されています。

この日は焼火神社に長居をしてしまったので、早くご飯をいただかないといけません。……急ぎましょう!

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2011年12月29日木曜日

隠岐ジオパークの旅 (99) 「千人待っても大丈夫っ!」

崖の下の……

昨日は「焼火神社」のあっぱれな神仏習合ぶりに一本取られてしまいましたが……。拝殿を見たからには本殿も見ておかないと、ということで。
岡山県だったか、あるいは鳥取県か、同じように絶地にあるお社(お寺かな?)があったと記憶しているのですが、この手の立地は中国地方に顕著なんでしょうか?

「焼火山」は「休火山」か「死火山」か

本殿の上はどうなっているか、と言えば……
これは……。千年以上の歴史の中では「落石事故」もあったと思うのですが、都度修復されてきたということなのでしょうか。寒帯気候だと、岩盤の水分が凍結と融解を年スパンで繰り返すことで、岩盤にクラックが入ってやがて崩落する……というケースもあるのですが、ここの岩は火山由来の多孔性のものだと思うので、意外と岩盤は安定しているのかも……などと思ったりもします。

あ、少し前にちらっと言及しましたが、隠岐の「島前」は「焼火山とその外輪山でできています。「焼火山」は「死火山」だったと記憶していますが(あるいは「休火山」か)、島前の各島を生み出した火山の名前が「焼火山」というのも面白いですね。偶然の一致なんでしょうけど。

千人待っても大丈夫?

では、これから宮司さんと一緒に山を下ります。まずは社務所に戻って……
浄化槽の横でこんなものを見つけたのですが、これは何でしょう?
さて、現在、石垣の上には社務所が建っていて、あとは空き地になっているのですが、
「この石垣の上には(かつては)何があったんですか?」と伺ってみたところ、かつては社務所がもっと大きくて、ある種の宿泊施設のようになっていたとの由。

城を偲ばせるほど広大な石垣の上に建設された社務所では、旧正月の年篭りの時に千人ほどの参詣人が火を待ちながらたむろしたり、また、江戸時代には巡見使が400人以上の家来を率いて参拝した折りの記録も残っているが、現在は客殿(きゃくでん)という場所にその名残をとどめている。
(「焼火神社公式ページ」より引用)
いやー、確かに石垣は結構大きいですが、ここに「千人」というのはちと無理があるような気も……。

ちなみに、「どうして取り壊してしまったんですか?」と伺ったところ、維持費が云々とのことでした。まぁ、やむを得ないでしょうね。

徒歩 15 分

登りは 20 分ほどかかりましたが、降りるのは 15 分程度で済みました。

山頂付近は焼火山神域植物群として保存され平成五年には神社から頂上まで遊歩道も整備された。10年以上かけて開通した焼火林道は市部(いちぶ)から始まって大山(おおやま)へ至り、平成5年には波止(はし)から焼火参道までは舗装整備されるまでになり波止からは車で5分、そこから徒歩で15分で神社まで到着可能となった。
(「焼火神社公式ページ」より引用)
確かに「徒歩で15分」というのは妥当な線かも知れません。

宿に急げ!

駐車場で宮司さんとはお別れして、それぞれマイカーで出発です。
この日は夕食込みのプランで宿を取っていたので、あまり遅れてしまっては宿の人に迷惑をかけてしまいます。急ぎましょう!
少々迷いつつも、宿に無事到着。この日の走行距離は僅か 71.4 km でした。3 回もフェリーに乗りましたから、妥当な線でしょうか。

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2011年12月28日水曜日

隠岐ジオパークの旅 (98) 「万物は流転して今ひとつ判然としない」

そして拝殿をじっくりと見る

社務所に長々と居座った揚げ句、宮司さんが下山されるのにご一緒することになったのですが、お暇する前に少しは拝殿と本殿を見ておかないと……となりまして。
はい。もちろん 15 時ごろにいらっしゃったお客さん+ガイドさんの姿は影も形もありません。

神仏判然令

ほかにお客さんもいないので、拝殿を正面から。
いわゆる「隠岐造」とは違う構造ですが、もともとは「焼火山雲上寺」というお寺だったので、「隠岐造」ではないのは当然のことかも知れません(製造も大阪ですし)。

社名
明治以前は焼火山雲上寺(たくひさんうんじょうじ)と号し、焼火社焚火社離火社(いずれも「たくひ(び)のやしろ」、または「たくひ(び)しゃ」と訓む)とも称されたが、明治初頭の神仏判然令を受けて現社名に改めた。
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
明治になって「お寺」と「神社」の兼業?を止めてしまったのは、いわゆる「廃仏毀釈」の流れに乗ったものなのでしょうね。隠岐は中沼了三らの存在もあってか、勤王の風土が比較的強かった(だろう)ことも「廃仏毀釈」の流れを加速したのでしょう。

ですから(無理矢理話を戻した)、正面の額には
焼火山」の文字が。なんだか遮光器土偶のようなポップなデザインですね(← もう少しマシな表現はできないものか)。

「焼火神社雲上宮」の正体

そして、拝殿の正面向かって右側には
「焼火神社雲上宮」と書かれていますね。雲の上のお宮、とは天空の城も一目を置く存在でしょうか。

しかーし!(←
「焼火神社」の右側に小さく光る「西ノ島町十五番札所」の文字が。「札所」と言えば四国のお遍路さんとか、どうしても「仏教」の世界が連想されてしまいます。いえいえ、ここは神社……、神社ですからねっ。

さらに下の方を見てみると
「御本尊 地蔵菩薩」という文字が。orz

本尊ほんぞん)には、次の意味がある。
  • 仏教寺院や仏壇などに最も大切な信仰の対象として安置されたり、お守りとして身辺に常時携帯される、仏や菩薩などの彫刻・絵画・曼荼羅(まんだら)・名号などのこと。
(Wikipedia 日本語版「本尊」より引用)
「御本尊 地蔵菩薩」って……。それってお寺じゃん!。まぁ、

  • 仏教、もしくは仏教以外の宗教において信仰の対象として大切に扱われるもののこと。
  • 仏教、もしくは仏教以外の日常生活において、ものごとの張本人や端倪すべからざる人物、大切にすべき物などのこと。
(Wikipedia 日本語版「本尊」より引用)
こういった解釈も成り立たないわけではないですが、しかし「菩薩」は仏像ですよね、やっぱ(笑)。そして、左に書かれた「足袋の外はきものにてあがるべからず」(?)という断り書き。実は俳句だったらどうしようかと一瞬どぎまぎしてしまいました。

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2011年12月27日火曜日

隠岐ジオパークの旅 (97) 「万物は流転してやがて日が暮れる」

ごめんくださーい

そんなわけで(略した!)、焼火神社の社務所に宮司さん(@takuhister さん)を訪ねます。
ごめんくださーい!

夏はアイスで

宮司さん(@takuhister さん)とお会いするのはもちろん初めて。実際にお会いしてみて思ったのは……そうですね、かなり言葉にするのが難しいのですが、すごく人としての奥行きのある方だなぁ、と。

挨拶もほどほどに、社務所の中に上げていただきました。「社務所」というと、袴姿の巫女さんが榊を持って歩き回っているような印象もありますが、決してそんなことはなく、古民家のような建物に宮司さんが一人いらっしゃるだけです。
まずは二階に案内していただいて、抹茶(氷入り)をいただきました。そういえば、目の前でお茶を点ててもらったのは初めてのような……。

そして万物は流転する

お茶をおいしく頂いたあとは、一階の囲炉裏のある部屋に戻って、そこからは「あーでもない」「こーでもない」とジャンルフリーな会話を。どんな話かと言えば、そうですねぇ……、私も @takuhister さんも iPhone ユーザーだったんですが、私の iPhone は「圏外」なのに @takuhister さんの iPhone にはメールが届いたりとか。どうやら香港で SIM フリーの iPhone を仕入れてきて、DoCoMo の回線で使用されているのだとか。

ネットの話は当然のごとく PC の話になり、「西ノ島町誌」の元となる資料を整理するためにデータベースソフトウェアを使ったとか、そういえば「FileMaker Pro」ってありましたよねとか……。二十年近く前から「パソコン」を使っていた人は決して多く無かったので、どうしても昔話で盛り上がってしまいます。

「あの頃は NIFTY-Serve ってありましたよね」などと話を振ってみると「一時期 SYSOP をやってました」とか(驚)。古き良き時代でした。

もちろん、古き良き時代の話ばかりしていたわけではなく、「西ノ島町誌」を拝見して(当然すべてを読み切れるわけもなく、つまみ食い的に拝見した程度ですが)いろいろと質問させていただいたりもしました。この「西ノ島町誌」は「町史」ではなく「町誌」とある通り「地誌」の体裁を取っているため、特定の事柄をピンポイントで調べるのがとても簡単にできるようになっています。

拝見していて、真剣に「これ、欲しい」と思いました(笑)。ちなみに、http://www.lares.dti.ne.jp/~takuhi/folder/tyosi.html でエッセンスを拝見することができます。

「明日は後醍醐天皇の行在所を見に行きます」と話したところ、「後醍醐天皇の行在所の場所は島後にあったって説もあるんですよね」とも。お話を伺ってみると、もともと島前・西ノ島の「黒木御所」が後醍醐天皇の行在所だった、という伝承があったところに、比較的近年になってから「行在所は島後の国分寺にあった」という新説が出てきて現在に至るのだとか。後醍醐天皇は、隠岐に骨を埋めた後鳥羽上皇とは違い、わずか一年で「大脱出」を決めてしまっただけに、伝承も物証も貧弱なのが災いしているようです。
あとは世間話もいろいろと……。どうしても震災の話題は避けて通れないわけですが、「今回の震災は日本人が価値観を改める良い機会なのではないか」とおっしゃっていたのが印象的でした。@takuhister さんは私より二回り近く年長でいらっしゃるのですが、それだけ長く世の中をご覧になっているわけで、ご意見はやはり傾聴に値するなぁ、と。

やがて日も傾いて

とまぁ、初対面でありながら、ずーっと社務所に居座っていろいろなお話を伺ったのでした。午後六時前になって「じゃあ一緒に下に降りますか」とお誘いいただいてここでお開きに。……営業終了まで三時間近く居座ってしまったのでした(汗)。

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2011年12月26日月曜日

隠岐ジオパークの旅 (96) 「焼火神社に @takuhister さんを訪ねて」

焼火の歩き方

というわけで、駐車場から約 20 分の道のりを経て、焼火(たくひ)神社にやってきました。軽く社務所の中を窺ってから、まずは拝殿を見に行くことにします。
狛犬が出迎えます。そしてその奥には
「焼火神社」の文字が。上の「県社」の文字は後付なのか、あるいは埋められたのか……?

はい。大変長らくお待たせしました。焼火神社の「拝殿」と「本殿」がこちらです!
島後の「壇鏡神社」も崖っぷちのお社でしたが、ここも負けてはいません。ここには滝こそ無いものの、凛とした雰囲気は「壇鏡神社」に負けずとも劣らないものがありますね。

今夜もまた「焼火トリビア」

さて。記念すべき?「第 100 回」の今夜も「焼火トリビア」行きましょう。

社殿は焼火山の南西側山腹、東西に長い境内地の東端に位置し、本殿は山腹の岩窟に半ば埋もれるように構えられ、本殿と拝殿が通殿を介して接続する複合社殿である。
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
はい。これは上の写真でご覧いただいた通りですね。

本殿は南面し、正面に軒唐破風を付した桁行1間梁間2間の一間社流造で、屋根は銅板葺。享保17年(1732年)の建立で、大坂の大工鳥居甚兵衛の最晩年の作である。大坂で木造りをし、米子の大工が現地で組み立てるという珍しい方法が採られたものであるが、
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
「大阪で木造りをし」「米子の大工が現地で組み立てる」とは……。なんか、どこかで聞いたことのある工法ですよね。このことは「焼火神社公式ページ」でも次のように触れられています。

当時としては画期的な建築方法で、大阪で作成され地元で組み立てられた(今でいえばプレハブ建築のはしりとでもいおうか)。
ああ、わかった! 積水ハウスと同じだったんだ!

焼火神社の宮司さん

そして、この「焼火神社公式ページ」(http://www.lares.dti.ne.jp/~takuhi/ )、「Netscape NOW!」のバナーも、そしてドメインが DTI というのもとても渋いと思うのですが、ページの下の方を見てみると……

Twitter ID takuhister
はい。今回の旅では twitter で仲良くしていただいている「隠岐クラスタ」の皆さんにいろいろと知恵を授けていただいたのですが、その流れで P さんに「島前のことは @takuhister さんに聞くといいですよ」とご紹介いただいたのでした。この takuhister さん、実は焼火神社の宮司さんでいらっしゃるのです(!)。

祀職
創祀以来雲上寺が祭祀を勤め、宝暦7年(1757年)の『両島神社書上帳』に「焼火大権現、別当雲上寺」とあるように、近世には別当として管掌したが、明治の初めに時の別当職が還俗して神主(現在の宮司に相当)松浦氏となって以後、同氏が宮司職を襲っている。
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
ということで、代々続く宮司の家系でいらっしゃるのですが、しかもですね、隠岐汽船のホームページには……

1885年(明治18年) 大阪商船会社(現、大阪商船三井船舶)より「速凌丸」を「隠岐島四郡連合会」で共同購入する資金の半額を松浦斌氏が自己負担し同船を「隠岐丸」と改名し松浦氏による委託運航が開始された。
とありましてですね……。ご先祖は隠岐と本州の間の旅客航路を一手に引き受けている「隠岐汽船」の生みの親でもいらっしゃるのだとか!

といったわけで、takuhister さんは大変な名士でいらっしゃるのですが、twitter で「焼火神社はホントにマムシが出るらしいよ」という話で盛り上がっていたところに「うちはマムシ屋敷か ^^;」と絶妙な突っ込みを入れてくださったりもします。

Bojan の社務所探訪

「15 時頃はどちらにいらっしゃいますか?」と聞いてみたところ、「その時間ならだいたい社務所にいますよ」とのことでしたので、いざ、これから「Bojan の社務所探訪」です!

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2011年12月25日日曜日

隠岐ジオパークの旅 (95) 「焼火の歩き方(第五夜)」

焼火の歩き方

こんばんは。「『焼火』の歩き方」第五夜です。

麓の駐車場から歩くこと約 15 分、ところどころに地滑りの跡も見え隠れする中、
ようやく到着したっぽい雰囲気になってきました(なんとあいまいな)。
これは何でしょう。何かの台のような気もするのですが……。
苔むして、いい雰囲気を湛えていますね。

今夜も「焼火トリビア」

では、今夜も「焼火トリビア」行ってみましょう。

上述したように、元来焼火山は北麓に鎮座する大山神社の神体山として容易に登攀を許さない信仰の対象であったと思われるが、山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期(11 - 12世紀頃)には、航海安全の神として崇敬を集めるようになったと見られ、その契機は、西ノ島、中ノ島、知夫里島の島前3島に抱かれる内海が風待ちなど停泊を目的とした港として好まれ、焼火山がそこへの目印となったためにこれを信仰上の霊山と仰ぐようになったものであり、殊に近代的な灯台の設置を見るまでは寺社において神仏に捧げられた灯明が夜間航海の目標とされる場合が大半を占めたと思われることを考えると、焼火山に焚かれた篝火が夜間の標識として航海者の救いとなったことが大きな要因ではないかと推定され、この推定に大過なければ、『縁起』に見える後鳥羽上皇の神火による教導も船乗りたちの心理に基づいて採用されたとみることもできるという 。
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
句点が無いな……(お約束)。そのですね、私も偶に長~い文章を書くことがあるわけです。で、雑誌の編集さんに「二分割の刑」に処されたこともあるので、そうならないように、それなりに気をつけるようにしていたりします。でも、ここまで一つの文章を引っ張ったことはさすがに無かった、と思いたいのですが。

で、上記の引用文をひっじょーに端折って書くとですね、「焼火神社の篝火は、船舶には格好の標識として重宝された」ということになるのかと。ここから、前回に引用した後鳥羽上皇の説話が導出された……となりそうです。卵と鶏が転倒しているかもしれませんが、その辺は気にしなくても良いでしょう。

とりあえず、こういった歴史的背景もあり(実はもっと具体的な事情もあるのですが、その辺は後述)、隠岐の船乗りさんからは今でも幅広く畏敬されている……ということのようです。

ようやく到着……か?

さて、なにやら城跡のようなものが見えてきました。
そして、先客がいらっしゃるようです。実は、登山道を歩いている途中からなにやら声が聞こえていたのですが、三人組の方々が先行されていたのでした。漏れ聞こえる会話からは、ガイドさんとそのお客さんのようです。

石垣の脇を歩いて、後ろを振り返ってみます。
石垣の上にあるのが「社務所」です。巨大な石垣の謎については、これまた後ほど。

結局、約 20 分ほどかかって社務所に到着。
さて、これから……どうしましょう(←

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2011年12月24日土曜日

隠岐ジオパークの旅 (94) 「焼火の歩き方(第四夜)」

焼火の歩き方

こんばんは。「『焼火』の歩き方」第四夜です。

麓の駐車場に車を停めて、歩くこと約十分。ようやく大きな鳥居が見えてきました。
そして、鳥居の左側になにやら案内板が。
念のため、更に拡大しておきますと、
春から秋にかけては マムシに注意」と。しかもわざわざ赤い字で。「これでもか!」と言いたくなるくらいマムシをフィーチャーしていますねw

今夜の「焼火トリビア」

というわけで、今夜の「焼火トリビア」です。

承久年中(1219 - 22年)のこととして、隠岐に配流された後鳥羽上皇が漁猟のための御幸を行った際に暴風に襲われ、御製歌を詠んで祈念したところ波風は収まったが、今度は暗夜となって方向を見失ったために更に祈念を凝らすと、海中から神火が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
読点が無いな……(やはりそこか)。続けますね。

感激した上皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし、何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が、「藻塩焼くや」と詠んだ直後に重ねて「何を焼く藻の」と来るのはおかしく、「何を焼(た)く火の」に改めた方が良いと指摘、驚いた上皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しましょうと答えて姿を消したので、上皇が祠を建てて神として祀るとともに空海が刻むところの薬師如来像を安置して、それ以来山を「焼火山」、寺を「雲上寺」と称するようになったという。
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
ふむふむ。この手の説話は史実からほど遠いファンタジーであるのが世の常ですが、しかしながら「何故このようなストーリーが語られたのか」というところを掘り下げていくと、意外といろいろな発見があるものです。

御製の「焼く藻」は「八雲」にかかっている、ということでしょうかね。

日本神話においてスサノオが詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」が日本初の和歌とされることから、和歌の別名ともされる。
また、上記の歌に因んで「八雲立つ」・「八雲さす」は出雲にかかる枕詞となっており、八雲は出雲国を象徴する言葉となっている。
(Wikipedia 日本語版「八雲」より引用)
すなわち、これは「焼火山の仙人」が「『八雲』じゃない『焼火』だ!」と言った、とも言えるのかもしれません。で、「八雲」=「出雲」ですから、「出雲じゃない」というアピールになる……のかな?

それにしても、「焼く」を「たく」と読ませるのは不思議な感じがします。案外「焚き火」あたりとも関係があるのかもしれませんね。

歪む時空

さて。戯れ言はこの辺にしてですね……。
鳥居をくぐると、石灯籠などが見えてきました。ようやく神社の境内っぽい雰囲気になってきましたね。
そして……あれ? ちょっと待て(笑) さっきは
「焼火神社まで 0.2 km」だった筈が、いつの間にか「350 m」に。そしてどう見てもこちらは訂正の跡が。そしてちょっと先を見てみると……
地滑りの跡が。こりゃあ長雨のあとはかなり気をつけないと危なそうです。

……つづくっ

基本的には、このように手すりも完備されている、安全な道なんですけどね……。
それにしても、焼火神社まではあと何メートルなんでしょうか。

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