焼火の歩き方
こんばんは。「『焼火』の歩き方」第五夜です。麓の駐車場から歩くこと約 15 分、ところどころに地滑りの跡も見え隠れする中、
ようやく到着したっぽい雰囲気になってきました(なんとあいまいな)。
これは何でしょう。何かの台のような気もするのですが……。
苔むして、いい雰囲気を湛えていますね。
今夜も「焼火トリビア」
では、今夜も「焼火トリビア」行ってみましょう。上述したように、元来焼火山は北麓に鎮座する大山神社の神体山として容易に登攀を許さない信仰の対象であったと思われるが、山陰地方における日本海水運が本格的な展開を見せる平安時代後期(11 - 12世紀頃)には、航海安全の神として崇敬を集めるようになったと見られ、その契機は、西ノ島、中ノ島、知夫里島の島前3島に抱かれる内海が風待ちなど停泊を目的とした港として好まれ、焼火山がそこへの目印となったためにこれを信仰上の霊山と仰ぐようになったものであり、殊に近代的な灯台の設置を見るまでは寺社において神仏に捧げられた灯明が夜間航海の目標とされる場合が大半を占めたと思われることを考えると、焼火山に焚かれた篝火が夜間の標識として航海者の救いとなったことが大きな要因ではないかと推定され、この推定に大過なければ、『縁起』に見える後鳥羽上皇の神火による教導も船乗りたちの心理に基づいて採用されたとみることもできるという 。
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
句点が無いな……(お約束)。そのですね、私も偶に長~い文章を書くことがあるわけです。で、雑誌の編集さんに「二分割の刑」に処されたこともあるので、そうならないように、それなりに気をつけるようにしていたりします。でも、ここまで一つの文章を引っ張ったことはさすがに無かった、と思いたいのですが。で、上記の引用文をひっじょーに端折って書くとですね、「焼火神社の篝火は、船舶には格好の標識として重宝された」ということになるのかと。ここから、前回に引用した後鳥羽上皇の説話が導出された……となりそうです。卵と鶏が転倒しているかもしれませんが、その辺は気にしなくても良いでしょう。
とりあえず、こういった歴史的背景もあり(実はもっと具体的な事情もあるのですが、その辺は後述)、隠岐の船乗りさんからは今でも幅広く畏敬されている……ということのようです。
ようやく到着……か?
さて、なにやら城跡のようなものが見えてきました。そして、先客がいらっしゃるようです。実は、登山道を歩いている途中からなにやら声が聞こえていたのですが、三人組の方々が先行されていたのでした。漏れ聞こえる会話からは、ガイドさんとそのお客さんのようです。
石垣の脇を歩いて、後ろを振り返ってみます。
石垣の上にあるのが「社務所」です。巨大な石垣の謎については、これまた後ほど。
結局、約 20 分ほどかかって社務所に到着。
さて、これから……どうしましょう(←
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