焼火の歩き方
こんばんは。「『焼火』の歩き方」第四夜です。麓の駐車場に車を停めて、歩くこと約十分。ようやく大きな鳥居が見えてきました。
そして、鳥居の左側になにやら案内板が。
念のため、更に拡大しておきますと、
「春から秋にかけては マムシに注意」と。しかもわざわざ赤い字で。「これでもか!」と言いたくなるくらいマムシをフィーチャーしていますねw
今夜の「焼火トリビア」
というわけで、今夜の「焼火トリビア」です。承久年中(1219 - 22年)のこととして、隠岐に配流された後鳥羽上皇が漁猟のための御幸を行った際に暴風に襲われ、御製歌を詠んで祈念したところ波風は収まったが、今度は暗夜となって方向を見失ったために更に祈念を凝らすと、海中から神火が現れて雲の上に輝き、その導きで焼火山西麓の波止(はし)の港に無事着岸、
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
読点が無いな……(やはりそこか)。続けますね。感激した上皇が「灘ならば藻塩焼くやと思うべし、何を焼く藻の煙なるらん」と詠じたところ、出迎えた一人の翁が、「藻塩焼くや」と詠んだ直後に重ねて「何を焼く藻の」と来るのはおかしく、「何を焼(た)く火の」に改めた方が良いと指摘、驚いた上皇が名を問うと、この地に久しく住む者であるが、今後は海船を守護しましょうと答えて姿を消したので、上皇が祠を建てて神として祀るとともに空海が刻むところの薬師如来像を安置して、それ以来山を「焼火山」、寺を「雲上寺」と称するようになったという。
(Wikipedia 日本語版「焼火神社」より引用)
ふむふむ。この手の説話は史実からほど遠いファンタジーであるのが世の常ですが、しかしながら「何故このようなストーリーが語られたのか」というところを掘り下げていくと、意外といろいろな発見があるものです。御製の「焼く藻」は「八雲」にかかっている、ということでしょうかね。
日本神話においてスサノオが詠んだ「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」が日本初の和歌とされることから、和歌の別名ともされる。
また、上記の歌に因んで「八雲立つ」・「八雲さす」は出雲にかかる枕詞となっており、八雲は出雲国を象徴する言葉となっている。
(Wikipedia 日本語版「八雲」より引用)
すなわち、これは「焼火山の仙人」が「『八雲』じゃない『焼火』だ!」と言った、とも言えるのかもしれません。で、「八雲」=「出雲」ですから、「出雲じゃない」というアピールになる……のかな?それにしても、「焼く」を「たく」と読ませるのは不思議な感じがします。案外「焚き火」あたりとも関係があるのかもしれませんね。
歪む時空
さて。戯れ言はこの辺にしてですね……。鳥居をくぐると、石灯籠などが見えてきました。ようやく神社の境内っぽい雰囲気になってきましたね。
そして……あれ? ちょっと待て(笑) さっきは
「焼火神社まで 0.2 km」だった筈が、いつの間にか「350 m」に。そしてどう見てもこちらは訂正の跡が。そしてちょっと先を見てみると……
地滑りの跡が。こりゃあ長雨のあとはかなり気をつけないと危なそうです。
……つづくっ
基本的には、このように手すりも完備されている、安全な道なんですけどね……。それにしても、焼火神社まではあと何メートルなんでしょうか。
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