参道……みたいな道を行く
「隠岐神社」(海士町)の隣にひっそりと存在する「後鳥羽天皇行在所跡」を見に行きます。落ち葉の少なさから、こまめに参道が手入れされていると想像できますね。
石段の手前から、左の方に行けるようです。そこに何があるかと言うと……
こちらです。「後鳥羽天皇火葬塚」とありますね。学校では「承久の乱」の首謀者として「後鳥羽上皇」が隠岐に流された、と習った記憶がありますが、ここの案内板などは一貫して「後鳥羽天皇」とあります。些末なことかもしれませんが、どうしてなんでしょうね。
曰くありげな空間
さて。「──火葬塚」の中に入ることはできない(と思う)ので、来た道を引き返して、石段を上っていきましょう。……お。またなにやら曰くありげな空間が見えてきました。見た目は教会墓地のような感じですが……
なにやら案内板がありますね。
おお。ここが「行在所跡」なんですね。解説文をきちんと読めるように拡大してみましょう。
後鳥羽天皇は「文武両道に長けた」とも称されているようですが、なるほど、このエピソードはそれを裏付けるようなものですね。歌を詠みつつ刀を鍛えたと言うのですから、なかなか面白いです。
後鳥羽院天皇行在所跡
柵で囲まれた土地の真ん中には……石碑がぽつんと。拡大してみると……
「後鳥羽院天皇行在所跡」とあります。うーーーん。「後鳥羽天皇」までは百歩譲って(譲りすぎ)アリかなぁー、と思うのですが、「──院天皇」というのには違和感ありまくりです。ここで言う「院」って「上皇」のこと、ですよね?
「皇国史観」における「不都合な史実」
まぁ、「大日本帝国憲法」下で天皇が神格化された時代には、大友皇子に諡号が贈られたり「南朝正統論」なんて考え方もあったわけで、足利尊氏(高氏)が思いっきり「朝敵」扱いだったわけですよね。「武士の分際で朝廷に逆らうとは何事だ」と。ですから、「皇国史観」の世の中においては、同じく武士の分際で、時の天皇を退位に追い込んで隠岐に流してしまったという歴史も、相当なタブーだったのではないかと考えられます。その辺の「不都合な史実」を、「上皇」を「天皇」と言い換えたりで覆い隠そうとした……といった風にも想像してしまうのですが、どうでしょう……。
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