今日こそ水若酢神社
さてさて。それでは一応「旅行記」らしい内容に戻りましょう。島後に二つある「式内社」のひとつで、且つ「若酢」グループの一員でもある「水若酢神社」です。鳥居をくぐってすぐの所に、何やら案内板が立っています。
一応、写真には収めてあるのですが、これじゃあ拡大しても読めませんね……。仕方がありません。久々にフォトショ使っていろいろ試してみましょうか……。
フォトショって便利
というわけで、この写真がこうなりました。
いやー、ホントにフォトショって便利ですね!
その前に「膺懲館」
では、参道を歩いてゆきます。ん……? また何やら石碑があります。
「私塾膺懲館跡」とあります。右側に説明文があるのですが、それはさておいてですね……。この土台?は一体何なんでしょうか。ここは気にしてはいけない所なのでしょうか。
右側の碑を拡大しておきましょう。
はい。ご覧の通りです。慶応から明治にかけて、「隠岐騒動」というものがあったそうなのですね。
「隠岐騒動」とは
では、この「隠岐騒動」という、ちょっと聞き慣れないムーブメントとは……。騒動までの経緯
寛永15年(1638年)の松平直政の松江への入部以来、以後隠岐は松江藩の預かり地となっていた。 江戸時代中期以降、隠岐では食糧難が恒常化していたが松江藩は有効な手立てを打つことなく、島民の間では藩に対する不信感が高まっていた。
(Wikipedia 日本語版「隠岐騒動」より引用)
はい。騒動に至るまでにはこういった背景があった、ということですね。そして隠岐国住民達は従来より尊王攘夷志向が強かった。 同様に尊王志向の強い十津川では「文武館」(現、奈良県立十津川高等学校)という学校が儒者中沼了三により設立されていた。 これを知った中沼の弟子の中西毅男は同名の学校設立の嘆願書を同士七十三名の連署を得て、新任の郡代である山郡宇右衛門に願い出たが取り下げられた。
(Wikipedia 日本語版「隠岐騒動」より引用)
という話もありました。中沼了三は中村(「かぶと岩」などで有名?な、島後北部の村)出身の儒学者です。文化13年8月15日(1816年9月6日)隠岐国で医者中沼養碩、母テツの三男として生まれる。天保6年(1835年)京都に上洛、山崎闇斎の流れを汲む崎門学派鈴木遺音(恕平)の門下として儒学を学んだ。天保14年(1843年)鈴木遺音の没後に京都で開塾、学習院講師、孝明天皇の侍講となる。門人には西郷従道、桐野利秋、川村純義、千葉貞幹、松田重助らがあり、中沼塾は薩摩藩士が多く、竹村東野門下でもあった中岡慎太郎も西郷隆盛との接触を図り入門している。また天誅組総裁の一人藤本鉄石と親交があり、後に藤本の招魂碑を残している。
(Wikipedia 日本語版「中沼了三」より引用)
西郷隆盛・従道兄弟や中岡慎太郎あたりは有名ですよね。中沼了三は大政奉還以前に「勤王」思想を説いたことで知られている……そうです(すいません)。こういったこともあり、島後の知識人には早くから「勤王」の気風が芽生えていた……と考えられます。儒学校設立の嘆願書が取り下げられたこともあり、郡代への不信感が強まる中……
山陰道鎮撫使総監西園寺公望から隠岐国の庄屋方へ宛てられた書状を、山郡が庄屋らに渡る前に開封したことが露見する。
(Wikipedia 日本語版「隠岐騒動」より引用)
こんな事件?が発覚し、郡代・山郡と松江藩への不信感は頂点に達します。その結果……そして3月19日早朝島後・島前の住民およそ3000人が隠岐郡代の陣屋を急襲し、山郡は隠岐から追放され、施政機関としての総会所が陣屋に設置され、島民による自治が開始した。
(Wikipedia 日本語版「隠岐騒動」より引用)
哀れ郡代様は隠岐から追放されてしまったのでした。最終的には閏4月27日、太政官から隠岐支配の内示を受けた松江藩主松平定安が派遣した兵が隠岐に上陸、松江藩兵が陣屋を奪還したが、島民側に同情的な薩摩藩、長州藩、鳥取藩が仲介し5月16日に松江藩兵は撤退し、島民による自治が一時復活したものの、明治元年11月に鳥取藩の管理下に置かれることとなり自治は事実上終了し、翌年2月に民兵組織も解体された。
明治4年、島民と松江藩双方の騒動に関係した者が罰せられ、一連の騒動は収束した。
(Wikipedia 日本語版「隠岐騒動」より引用)
約半年で自治は終了したのでした。ただ、薩長の同情をとりつけるというのは中々大したものですね。単なる「一過性の反乱」ではなく、それなりに理に適った「革命」だと認識されたということでしょうから。誰が何を懲らしめる?
ここ「水若酢神社」の傍に存在した「膺懲館」は、薩長も一目を置いた?「隠岐騒動」のキーマンを育成した、ということのようです。ただ……どうして「膺懲館」なんでしょうね。「膺懲」というのは「懲らしめる」という意味の筈なのですが、誰が何を懲らしめようとしたのでしょうか。……いかん。旅行記の筈だったのに(汗)
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