2011年6月9日木曜日

北海道・東北の旅 2010/夏 (124) 「Такадая Кахея」

「三航北国日誌」第 124 回です。一寸先はヤミ金融、千里の道も大江から、です。

次官級協議の輝かしい成果

さて、函館山登山道路の各種規制情報を撮影していたところ……
事件が起こりました(←)。なんと車内に闖入者が! はい、この方です!
というわけで、このペルソナ・ノン・グラータ氏と約 1 分間の次官級協議を行いまして、無事車外に退去いただくことに成功しました。
え、虫に「ペルソナ」は無いだろうって? あ、いやまぁ、その……(←

ハイぺリオンの没落(違)

護国神社の鳥居から参道のように伸びるこの通りは「高田屋通」と言うみたいですね。では、この銅像は……
「高田屋」と言えば Такадая Кахея こと「高田屋嘉兵衛」ですね。
はい、その「高田屋嘉兵衛」さんとはどんな方だったか、という話ですが……

高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ、明和6年1月1日(1769年2月7日) - 文政10年4月5日(1827年4月30日))は、江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。
(Wikipedia 日本語版「高田屋嘉兵衛」より引用)
「明和」と言えば「明和電機」ですが、そんなことは気にせず進めましょう(←

生涯
淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)の農民の子として生まれる。漁業に従事し、18歳で兵庫へ出て廻船業者を志して出て、淡路と大坂とを往復する瓦船に乗る。1790年に樽廻船の水主から、船頭となる。紀州での鰹漁や、和泉屋伊兵衛のもとで船頭となり酒田へ航海して資金を貯める。寛政7年(1795年)には、兵庫の北風家の助けを得て、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。
(Wikipedia 日本語版「高田屋嘉兵衛」より引用)
えー、とりあえず淡路島出身だった、ということですね。

享和元年(1801年)、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許された。嘉兵衛は漁場を次々開拓し、蝦夷地経営で「高田屋」の財は上昇した。
(Wikipedia 日本語版「高田屋嘉兵衛」より引用)
ふむふむ。蝦夷地(北海道)のみならず、千島にも活躍の場を広げてイケイケドンドンだった、と。ところが、

文化9年(1812年)幕府によるロシア船ディアナ号艦長ヴァーシリー・ゴローニン幽囚の報復として、嘉兵衛は国後島で副艦長のリコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。ディアナ号でカムチャツカ半島ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行されるが、翌年帰国。帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力した。また、幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられた。1818年に隠居し、59歳で死去。
(Wikipedia 日本語版「高田屋嘉兵衛」より引用)
出ました、ゴローニン事件。幕末史は専門外なんで詳しいところは判らないのですが、まぁ、日本側に身柄を拘束されてしまったゴローニン親分を奪還するために、ゴローニンの手下が「人質交換の材料」として高田屋嘉兵衛の身柄を拘束した、といったところかなぁ……と思います。

なお、嘉兵衛の死から6年後の天保4年(1833年)に、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落した。
(Wikipedia 日本語版「高田屋嘉兵衛」より引用)
あららら……。禍福はあざなえる蝿の……じゃなくて縄の如し、ですねぇ。

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