いわゆる「大シーボルト」です
「義経=チンギス・ハーン説」を世に送り出したのは、意外や意外なことに、かのシーボルトだったそうです。シーボルトはご存じの通り、幕末に来日してあーだこーだしてどーのこーの(←)という人ですね。このように、「義経伝説」がインターコンチネンタルになったのは江戸後期から幕末にかけてですが、その原型になったと思われる「義経北行説」は、実は室町時代にはある程度ベースが出来ていたのだそうです。♪人生ヒツジでジーンギースーカァーン♪
「義経は死なせるには惜しい」→「義経は衣川で死ななかったに違いない」→「逃げおおせたに違いない」→「逃げたのなら、頼朝の影響力が及ばない蝦夷地に違いない」という論法になるのはおおよそ想像がつくわけで、そこから「そうなのであれば、蝦夷地には義経主従の伝承があるに違いない」という後付けの論理に至り、「うーん、それだったら『オキクルミ』あたりが義経っぽくね?」という付会になった、と考えられるみたいです。
- 「或日、衣河之役義経不死、逃到蝦夷島其遺種存干今」『続本朝通鑑』「俗伝」林鵞峰(林春斎)編纂。寛文10年(1670年)
- 「世伝義経不死於衣河館、遁至蝦夷」「然則義経偽死而遁去乎、至今夷人祟奉義経、祀而神之、蓋或有其故也」『大日本史』徳川光圀編纂。
- 「義経手ヲ束ネテ死ニ就ベキ人ニアラズ、不審ノ事ナリ」「今モ蝦夷ノ地ニ義経家跡アリ。マタ夷人飲食ニ必マツルモノ、イハユル『オキクルミ』ト云フハ即義経ノ事ニテ、義経後ニハ奥ヘ行シナド云伝へシトモ云フ」『読史余論』新井白石。
林鵞峰(春斎)の『続本朝通鑑』「俗伝」の記載(1670年)により、義経北行伝説は急速に広がっていった。
(Wikipedia 日本語版「義経=ジンギスカン説」より引用)
こうやって見てみると、新井白石や水戸光圀といった「有名どころ」も、「義経北行説」の立証に随分と熱心だったことが伺えます。もっとも、江戸時代に「義経北行説」の立証が盛んに試みられたのは、このような源義経北行伝説の萌芽も、やはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にあり、1669年から翌年にかけておこったシャクシャインの戦いなど北方の係争と無縁でない。
(Wikipedia 日本語版「義経=ジンギスカン説」より引用)
といった時代背景も一役、いや二役か三役くらいは買っていたと見るべきかと思います。樹木を大切にしましょう
さて、そんな(どんなだ)義経神社に戻りましょう。「平取油田記念碑」をまわれ右して、再びメインの参道?のほうに戻りましょう。周りを見てみると、なにやら立派な木が見えます。
「義経神社の栗記念保護樹木」とあります。
「義経神社の御神木として住民に親しまれています」とありますね。樹木を大切にしましょう。
鳥獣よ安らかに
こちらは……「鳥獣鎮之碑」とあります。見ての通り、そのまんまですね。インパクトという意味では、高野山で見かけた
こちらのほうが強烈ですが……(←
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