北方の隣人
稚内とサハリンの歴史を語る上で、1983 年 9 月の「大韓航空機撃墜事件」は、「外すことのできない」話題であることに間違いはないのですが、同時に、少なくとも稚内側では「忘れられるものなら忘れてしまいたい」話題でもあるように見受けました(展示の場所も、奥の隅っこの方にひっそりと存在していました)。稚内の人々にとって、隣人(ソ連)を悪し様に罵るのも本意ではない筈ですから。ウラジミロフカ → ユジノサハリンスク
一方、戦前に日本の統治下にあった南樺太についての展示はかなり大々的です。「絵はがきで見る南樺太」と題して、大泊(コルサコフ)や豊原(ウラジミロフカ → ユジノサハリンスク)の絵はがきが展示されています。
ちなみに、こちらが大泊で、
こちらが豊原ですね。
どっちも切れちゃってますが、それほど(私の)興味を惹くものではなかった、ということで。
変わる~変~わる~よ~主権~は変わる~
その割には、こういった地図はちゃっかりと全体が見渡せるようにカメラに納めていたりします。樺太(サハリン)の主権は、明治の初頭からあっちに行ったりこっちに来たりを繰り返しているのですが、直近では、日露戦争後のポーツマス条約で、北緯 50 度以南の「南樺太」が日本の領土となっていました。ちなみに、北緯 50 度とはこの辺です。
島国の日本には、「陸上の国境線」というものはとても珍しいもので、当時はこの「北緯 50 度線」が唯一の「陸上の国境線」だった……筈です。この国境線を、後に岡田嘉子が越えることになります。……って、皆さん知らないですよね、岡田嘉子。
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