2010年7月25日日曜日

エルンスト死してもデグナーは死なず

「瑞祥地名」ならぬ「転倒地名」

昨日(2010/07/24)の記事「「ニシパコシキルシ」と「近藤が淵」」の続きのネタです。

「ニㇱパコシキルシ」と「近藤が淵」は、いずれも北海道は知床半島近くの地名あるいは旧地名、もしくは通称ですが、どちらも「誰かが素っ転んだ」ことがもとで名付けられた地名、という共通点を持ちます。で、昨日の記事を書いた後でふと気がついたのですが、もっと有名な例があったよな、と。

その名は「デグナー」

そう、残念ながら地名と呼ぶにはちと無理があるのですが、鈴鹿サーキットの「デグナー(カーブ)」がまさにそれです。下の図では⑧の部分にあたります。
(Wikimedia Commons より借用。このファイルはパブリックドメインです)
この図にも、ちゃんと Degner と書いてありますね。

デグナーさんの人となり

さて、この「デグナーカーブ」の名付け親となったデグナーさんは、一体どんな人だったのでしょうか。

エルンスト・デグナー ( Ernst Degner,出生時の名前はErnst Eugen Wotzlawek,1931年9月22日 - 1983年9月10日 )は、ドイツ・グリヴィツェ(現ポーランド領)生まれのオートバイレーサー。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
……ということで、なるほど。読めないと思ったらポーランド方面でお生まれになったようですね。ヨーロッパの中で、ポーランドの人名ほど難読なものは無いでしょう。プラヴォ・ヤズディさんも大活躍するわけです。

デグナーさんの経歴

……デグナーさんの話題に戻りましょう。

経歴
第二次世界大戦後、彼は家族と東ドイツに移り住んだ。1957年から1961年にかけてデグナーは東ドイツのMZ社のオートバイを駆り、ロードレース世界選手権の125ccクラス、250ccクラスで活躍した。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
当時の東ドイツは、ヴィルヘルム・ピークやヴァルター・ウルプリヒトの時代になりますね。それにしても、当時の東ドイツに世界選手権で戦えるバイクメーカーがあったとは驚きでした。てっきり、東ドイツにはトラバント(東ドイツを代表する小型乗用車)しか無かったのかと(←

MZモトラート(MZ Motorrad- und Zweiradwerk GmbH )はドイツのオートバイメーカー。かつてはDKWと名乗っていた(DKWの四輪部門はのちのアウトウニオン、現在のアウディに統合されている)。
第二次世界大戦後はMZと名を変え、トラバントとともに東ドイツの代表的な工業製品だった。
(Wikipedia 日本語版「MZモトラッド」より引用)
あ、やっぱりトラバントの名前が(笑)。

エルンストは転んで名を残した

デグナーさんのその後については色々と逸話があるのですが、その辺は後日に回すとして、「デグナーカーブ」の由来について。

翌1962年シーズンには、デグナーは日本のスズキと契約し、この年から始まった50ccクラスでスズキにグランプリ初タイトルをもたらした。同年11月に行われた鈴鹿サーキットのオープニングレース「第1回全日本選手権ロードレース」ではトップを独走中に転倒。その転倒したコーナーが「デグナーカーブ」と命名されることになった。
(Wikipedia 日本語版「エルンスト・デグナー」より引用)
とまぁ、1962 年と言いますからキューバ危機がどーのこーの、という時代の話です。そんな 50 年近く前に転倒したことが由来で、未だに「デグナー」という名前が生き残っていると言うのですから大したものです。

しかも、エルンスト・デグナーが転倒した時のレイアウトは、上図の ⑧ と ⑨ をゆるやかに繋いだカーブだったのですが、その後の改修で ⑧ と ⑨ の二つのコーナーに分けられてしまいました。にも関わらずデグナーの名前は生き続け、「デグナーコーナー」「デグナーの第一第二」といった表現が未だに多用されています。

エルンスト死してもデグナーは死なず

ちなみに、エルンスト・デグナーさんは 1983 年に心臓発作でお亡くなりになっているのですが、その名は鈴鹿サーキットの複合コーナーとして未だに生き続けています。まさに「エルンスト死してもデグナーは死なず」てな感じの話ですね。

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