2010年4月27日火曜日

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奥州藤原氏はアイヌではなかった?

 

「えみし」は「アイヌ」か「辺民」か

一昨日に引き続き、「えみし」と「えぞ」について続けます。

蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を日本人の一部とする蝦夷辺民説である。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
これがまた、漢字で書かれているので、文脈をきちんと追わないと一見意味不明になってしまうのですが、この「蝦夷」は「えみし」のことです。うん、書いているそばから読み違えてしまいましたよ……!

何らかの繋がりはある筈……

えーと、改めて整理しますと、「蝦夷(えみし)はアイヌである」という「蝦夷(えみし)アイヌ説」と、「蝦夷(えみし)も和人である」とする「蝦夷(えみし)辺民説」の両方がある、ということですね。個人的には「蝦夷アイヌ説」に乗りたいところなのですが、そうとも断言できない可能性も捨てきれないようです。

ただ、「蝦夷(えみし)」と「アイヌ」は一切の関係を持たないという仮説は、さすがに棄却できそうな雰囲気です。

現在では、考古学からする文化圏の検討と、北東北にアイヌ語で説明できる地名が集中しているから、少なくとも飛鳥時代(7世紀)以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である。
(Wikipedia 日本語版「蝦夷」より引用)
またしても、みんな大好きな「地名」による比定?なのですが、北東北(青森県や秋田県、岩手県など)には「アイヌ語地名」が多数見つかることから、北東北には多数のアイヌの人たち(少なくとも、アイヌ語を使う人たち)が住んでいたことを窺わせます。

この人も「蝦夷」=「アイヌ説」でした

ちなみに、こんな本も先日読み終えました。
「アイヌ語研究」の第一人者であり、三省堂「明解国語辞典」の編者としても知られる「金田一京助」の評伝です。金田一春彦さんのお父さんです。なお、名探偵の「金田一耕助」や、その孫の「金田一少年」とは血縁関係はありません(あったらこわい)。

著者の藤本英夫さんは、もともとは高校の教員だった方ですが、趣味が嵩じて(?)あちこちの遺跡発掘に従事したり、また他ならぬ金田一京助の最大の弟子・知里真志保の評伝を書いたりしています。そういった意味では文章もアマチュアの筈なのですが、なかなかどうして、とても読ませる文章をお書きになる方です(ただ、どうやら 2005 年末?に逝去されたようです)。

あ、話が逸れましたが、金田一京助さんも、やはり「蝦夷アイヌ説」をプッシュしていたのだそうです。

しかし、奥州藤原氏はアイヌではなかった?

このように見てみると、「蝦夷」=「アイヌ」と考えるのが極めて自然なのですが、ここで興味深いのが「奥州藤原氏四代」(清衡、基衡、秀衡、泰衡)のミイラが中尊寺金色堂に残されていたという点です。

昭和 25 年にミイラの学術調査が行われたそうなのですが、その結果は「遺体は日本人(和人)の特徴を具え、アイヌのおもかげは見られない」というものだったそうです。奥州藤原氏が「蝦夷の子孫」を自他共に任じていたことを考えると、肉体的器質に「アイヌ」の特徴がほとんど見られなかったことは、「えみし」と「アイヌ」の断続性を物語ることにもなってしまいます。

……続きはまた後日、ということで。

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