2010年1月31日日曜日

「泰緬鉄道」とわたくし

泰緬鉄道」についての初めての見聞は、確か小学校高学年、あるいは中学生になった頃と記憶しています。当時はひたすら「ひょえー」と思ったものですが(どんな感想だ)、文字通りの「死闘」の記録に、さながら「取り憑かれてしまった」記憶があります。今から思っても、非常に示唆に富む事案?でもありますし。

泰緬鉄道とは

というわけで、いつもの通り……。

泰緬鉄道(たいめんてつどう)は、第二次世界大戦中にタイとビルマ(ミャンマー)を結んでいた鉄道である。日本軍によって建設・運行され、戦後、連合国軍によって、一部を残し撤去された。日本軍の公式名称は泰緬連接鉄道。英語名称は Thai-Burma Railway だが、英語圏ではむしろ Death Railway (死の鉄道)の名で知られる。存置部分は、タイ国鉄南部線の支線、ナムトック線として運行されている。
(Wikipedia 日本語版「泰緬鉄道」より引用)
といったものです(← 手抜き)。ちなみに「泰緬」の意味ですが、「泰」が「タイ」で、「緬」は「緬甸」の略です。「緬甸」=「ビルマ」ということになります。

今頃気づいたのですが、「緬甸」=「Miandian」だそうですから、「ビルマ」よりも「ミャンマー」とか、あるいは「マンダレー」あたりに語感が近い感じですね。水島上等兵もびっくりでしょう(←)。ちなみに、水島上等兵のモデルとなった人物は 2008 年までご存命だったそうで。
とりあえず、展示されていた路線図をつけておきましょう。

なぜ鉄道を建設する必要があったのか

さてさて。何故に日本軍はタイとビルマの間に鉄道を建設することになったのか、ということですが……

戦時中、旧日本軍は海上輸送の危険を避けるべく1942年、ビルマ戦線の物資輸送のためのルートを確保するため、建設を開始した。
(Wikipedia 日本語版「泰緬鉄道」より引用)
ということです。当時ビルマはイギリスの植民地で、援蒋ルートの中でも最後まで残った「ビルマルート」の拠点となっていました。「援蒋ルートって何?」という方もいらっしゃるかも知れないので、念のためちょいと引用を。

名前の由来は「(中華民国総統の)蒋介石を援助するためのルート」。国民政府は、米英ソなどの援助を受けることで劣勢ながらも徹底抗戦を続けたため、日本は、長期間にわたり100万以上の兵力を中国大陸に貼り付けて置かねばならず、国力は疲弊した。太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦は、国民政府の原動力である援助物資の輸送路である援蒋ルートの遮断もその目的の一つであったと見られている。現在の日本では、単に「援蒋ルート」と言った場合、後述の「ビルマルート」を想定していることが多い。
(Wikipedia 日本語版「援蒋ルート」より引用)
とまぁ、こういうことです。日本軍は重慶に引き篭もった(←)蒋介石に手を焼いていたわけですが、「蒋介石がなかなか屈服しないのはビルマ経由で連合国から運ばれてくる援助物資のせいだ」という解釈に至り、「臭いニオイは元から断て」とばかりにビルマに侵攻した、といったところでしょうか。

で、イギリスとしても、シンガポールはさておき、ビルマまで失っては「インド」という巨大な権益を失いかねないということで、「ビルマの戦い」は激越なものになった……ということだったかと思います。泰緬鉄道は、そんな激化するビルマ戦線への物資輸送等のため、建設が急がれた、ということになります。

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2010年1月30日土曜日

出張!なんでも鑑定団(C56 蒸気機関車編)

「畏れ」を読んでもらえない虞

何時になくコメントを入れづらい内容が続いておそれ入ります。それにしても、「ATOK」でも「Google 日本語入力」でも「おそれ入る」が一発で変換されない(ような気がする)のがとっても残念な今日この頃です。

「恐れ入る」は、「恐」の字面がちょっと違う気がしますし、かと言って「畏れ入る」だと読んでもらえない虞がありますし。なので止む無く「おそれ」だけは平仮名にしていたりします。あ、「虞」も「おそれ」ですね。なんでも「恐れ」にしてしまうのは良くない風潮だと思います。

出張!なんでも鑑定団(C56 蒸気機関車編)

あれ、何の話をしようとしてたんでしたっけ?(←
そんな訳で C56 31 なんですが(どんな訳なんだか)、写真をご覧いただいてもお判りのように、とても状態(程度)が良いのですね。ですので、最初はてっきりレプリカかと思ったわけです。
ただ、運転席周りを見ると、確かに少々くたびれた風も見えますし……。

そして、これが「ホンモノだ!」という決定的な証拠が見つかりました。たとえば、これです。
もう一枚あります。こちらもそうです。
この 2 枚の写真は、いずれもテンダー(炭水車)のある部分のクローズアップです。

この、タイやビルマに送られた C56 型機関車ですが、戦後も何割かが生き残り、現地でそのまま使用されていたのだそうです。タイ国鉄では、日本の国鉄とは異なり、蒸気機関車にも多少のペイントを施していたらしく、例えばテンダー部分には略称のような文字がペイントされていたみたいです。つまり、これらのクローズアップ写真は、タイで使用されていた頃のペイントを上から黒塗りした跡、となります。

つまりこんな感じだったみたいで

タイから「復員」した蒸気機関車は、静岡県の大井川鉄道でも 1 機が動態保存されているようで、何かの企画で、改めて「タイ国鉄」色にペイントされたことがあったみたいです。
(Wikimedia Commons より借用。この作品の著作権者である「SL Story's」氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。:
GNU Free Documentation License に示されるバージョン 1.2 またはそれ以降のライセンス)

ちょうど後ろ側のテンダー車(炭水車、つまり石炭と水を搭載していた部分)に、何やら文字が書かれているのがおわかりかと思います。さすがにタイ語は全くわからないので、何と書いてあるかはさっぱり不明です。

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2010年1月29日金曜日

C56 型 31 号機

こども店長は居なかった(←

というわけで、遊就館の建物が見えてきました。
昨日の記事にも書きましたが、ちょっとした博物館のようですね。いや、むしろ車のショールームに近い構造かも知れません。もっとも、車のショールームだと、中に置いてあるのは「車」なのが相場ですが、こちらの場合はもう少々大きなもので……。
こんな風に、蒸気機関車がどーんと展示してあったりします。

そして、このアングルは意図的に狙ったわけではありませんが、
この写真とそっくり、ですね。
この C56 型機関車、ご覧の通り名古屋生まれですが、その後何の因果かタイに供出され、かの「泰緬鉄道」を走ったと言います。この「C56 31」は、写真の通り、泰緬鉄道が全線開通した時に、晴れの一番列車を牽引した機関車でした。

Simon & Garfunkel とは違います

「そんな昔の話は知らないよ」という方も多いかも知れませんが、たとえば、映画の「戦場にかける橋」とか、あるいは映画の中で使われた「クワイ河マーチ」とかは聞いたことがありませんか? ありませんか。そうですか(←

「泰緬鉄道の建設」は、主に徴発した地元民とマレー人・インドネシア人、そして連合国捕虜の手によって行われたとされます。ご多分に漏れず……というのが情けない限りなのですが、劣悪な環境下での強制的な労働で、多くの犠牲者を出し、戦後は「戦争犯罪」として断罪されたと言われます。

……まぁ、そんな「戦争犯罪」の象徴となるものを、堂々と展示していることになるわけですが、……うーん。いや、C56 機関車には罪はないですし、現場で鉄道建設に邁進した人の中にも「いいひと」は居たでしょうけど。でも、「エノラ・ゲイ」を展示するのと似たり寄ったりなんでしょうかね。話の次元が全然違うので、そもそも比較対象にすらなってませんけど。

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2010年1月28日木曜日

君子居必擇郷、遊必就士、所以防邪僻而近中正也。

脇道をゆく(←

さて。正面の本殿には足を運ばず、右手のほうに向かうと、社務所が見えてきました。
何の変哲も無い「社務所」です。建物はかなり立派なほうだと思いますが……。こうやって見ると、「普通の神社」なんですけどね。

「靖国カレンダー」絶賛領布中

社務所にも特に用は無いので、そのまま右手を通り過ぎます。
途中、「靖国カレンダー」を露店で頒布(販売)していました。

遊就館

そして、目的地が見えてきました。
右手のガラス張りの建物が、かの「遊就館」です。ちょっとした博物館のような雰囲気ですね。
でも、神社らしく、新年を迎える準備も万端整っているようです(12/23 に撮影)。

遊就館って何ですか?

「遊就館って何ですか?」という方むけに Wikipedia から引用を。

遊就館(ゆうしゅうかん)は、靖国神社境内に併設された、同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館(博物館法の適用外)。幕末維新期の動乱から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る戦没者、国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している。1882年(明治15年)に開館した、日本における「最初で最古の軍事博物館」。
(Wikipedia 日本語版「遊就館」より引用)
なんだか字面を見ると、就職活動中の高等遊民のようにも思えますが、もちろんそんな意味ではないです。

「遊就館」という名称は、『荀子』勧学篇の「君子居必択郷遊必就士」(くんしはおるにかならずきょうをえらびあそぶにかならずしにつく)に拠る。
(Wikipedia 日本語版「遊就館」より引用)
えーっと……。あれ? どういう意味だろ。

君子居必擇郷、遊必就士、所以防邪僻而近中正也。

……なるほど。http://kanbun.info/koji/kyohakana.html に依ると、どうやら本来は「君子居必擇郷、遊必就士、所以防邪僻而近中正也。」のようですね。読み下すと「君子は居るに必ず郷を択び、遊ぶに必ず士に就くは、邪僻を防ぎ中正に近づく所以なり。」となるのだそうです。うーーーん、意味深長ですよこれは……。

現代文訳(だと思います)も見つかりましたので、引用させてもらいます。

君子がきまって環境の良い村里を選んで住み、すぐれた知識人についてきまって学ぶのは、よこしまで偏ることのない礼義にかなって、正しくなるためなのである
……つまり、靖国に「軍神」として祀られることは、天皇の赤子(せきし)たる臣民が「中正に近づく」ことだ、ということ……になるのでは、と。

もっとも、殉教者が天国に行ける国も多いので、殊更当時の日本が異常だった、という論理は通用しないとも思いますけどね。

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2010年1月27日水曜日

「参道をゆく」 第二夜

「参道をゆく」(←)第二夜です。
「芸能人お断り」じゃなくて「無断取材お断り」の看板を尻目に、さらに参道を奥へと進みます。これが、良く NHK スペシャルとかで目にする門、ですよね。変なところでミーハー根性丸出しだったりして、結果として構図のセンタリングを微妙に失敗しています。
ちなみに、この門の扉を反対側から見てみると……。超・巨大な菊の御紋が。

昭和天皇が存命の頃は、天皇が国内を旅行する時には、国鉄が「お召し列車」という臨時列車を運転したものでした。原宿駅に「宮廷ホーム」と呼ばれる専用ホームがあって、そこから皇族専用の「貴賓車」で全国を回っていたそうで。その皇族専用車両にも「菊の御紋」がついていたわけですが、いやはや、大きさが段違いですね。

「菊の御紋」が今なお存在するという事実への考察

いわゆる「左寄り」の人は、おそらく「菊の御紋」は憎悪の対象になるのでしょうね。反対に、いわゆる「右寄り」の人にとっては、崇拝の対象なのだと思いますが、そのあたりの是非はさておいて……。戦前から占領期を経て、21 世紀の現在に至るまで、そこに巨大な「菊の御紋」があり続けている、あるいは「生かされている」という事実は色々と示唆に富むものです。

非常に回りくどい書き方をしていますが、端的に言えば、その気になれば GHQ は靖國をぶっ壊すこともできた筈だと思うのですね。ただ、「そうしなかった」あるいは「できなかった」という事実が指し示すものは何なのか、ということです。

これを「アメリカも『靖國存ずべし』と考えている」と断ずるのも、実は早計ではないかと思うのです。確かに、GHQ の統治下にあっては「靖國」は日本の国民感情を慰撫するうえで必要な、ウェイストゲートバルブ的な役割を期待されていたと考えられます。そういった「効能」を考慮して、トレードオフ的に「あえて壊そうとはしなかった」という見方もできるのでは、とも思うわけです。また、その存在意義が戦後 65 年の現在にあっても当時と変わらずあり続けているのか、という点も疑問を差し挟む余地があります(存在意義を否定しているわけではないので念のため)。

……この辺のスタンスを明確にしておかないと、あらぬ誤解を招きそうなので怖いんですよねぇ。希求すべきは「幸福の最大公約数」のみ、という考えです。うん、なかなか日本人的なうまい表現だと思うのですがいかがですか?(自画自賛)
さらに参道を奥へと進みます。
これが「本殿」でしょうか。巨大な「菊の御紋」が威圧的ですね。

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2010年1月26日火曜日

参道をゆく

「ルチ大村」こと大村益次郎の時代と陸軍の創成期に思索を巡らせる……ようなことは置いといて(皆さんもそんなものは読みたくないですよね(笑))、靖國神社の見学記?を続けましょう。
雲ひとつ無い青空が眩しいですね。かつて京都に住んでいた者としては、神社と言えば「上賀茂神社」や「下鴨神社」、あるいは「松尾大社」といったところが頭に浮かぶのですが、いずれも鬱蒼と生い茂った森の中のお社、という印象があります。「平安神宮」なんかは例外ですが、まぁ、あれは神社じゃ無いですし(言い切った)。

その点、靖國神社の参道はとても広々としていて、且つ、まっすぐ伸びた参道が何やら異質なものに感じます。同じく明治時代に創建された「橿原神宮」とも違う、何か異質なもの……ですね。イデオロギーという名の先入観に影響されているだけだ、と言われたら、確かに否定はできないですが。
ですから、こんな風に売店でソフトクリームなんかが売られていると、なんだか妙な安心感を覚えるのも事実でして。非現実の中の現実、なんて感じでしょうか(大げさ)。
それにしても、人の多さも相変わらずですが、得も言われぬ威圧感のある佇まいですね。

ちょうずや

これは……手水舎ですね。ちなみに「ちょうずや」と読みます。端的に言えば手洗い所、ですね。間違えても「水飲み場」ではありません。

クロアチア風ですが

何やら大量の酒樽が積んでありますが、あちらこちらから奉納されたお酒のようですね。「奉納 全國靖國献酒會」とあります。後ろの模様がクロアチア風ですが、多分気のせいです。

報道関係者各位に告ぐ(←

そして、「ふつーの神社」にはまず存在しない、こんな看板まで。正直、こういう配慮はとてもありがたいです。

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2010年1月25日月曜日

写実か、それともポップアートか

ルチ将軍……ではなくて

さて、こちらの、いかにも独裁者チックな(←)銅像の主ですが……
ルチ将軍……ではなくて、どうやら大村益次郎さんのようです。

ちなみに、明治時代に来日して、紙幣や切手印刷の基礎技術を築いたとされる Edoardo Chiossone が描いた大村像がこちら。
(Wikimedia Commons より借用。この写真画像は日本の旧著作権法第23条及び著作権法附則第2条の規定により、その著作権による保護期間が満了しています)
いや、だから、ルチ将軍じゃ無いですよって。

ルー……じゃなくて

では、このルチ大村……いや、大村益次郎という人はどんな人だったか、というところを。

大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩(現・山口県)の医師、西洋学者、兵学者。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)
ふむふむ。

長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)
なるほどねぇ。個人的には山縣有朋というおっさ……いや、人物が陸軍の創始者に当たるのかと思っていたのですが、大村は山縣の 14 歳年長だったようですから、山縣から見て大村は「先人」に当たるようです。実際、

大村の軍制構想は山田顕義、船越衛、曽我祐準、原田一道らによってまとめられ、同年11月18日には兵部少輔久我通久と山田の連署で『兵部省軍務ノ大綱』として太政官に提出されている。大村の「農兵論」は、山田らによって、明治4年(1871年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって実行に移されるも、同規則も同年内には事実上廃棄されている。その後、兵部省・陸軍省内の主導権が山田から山縣有朋に移った後、明治6年(1873年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定されることとなる。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)
という記述もありますし。

靖国の父

そして、その大村が靖國神社内においてスターリンと勝負できそうな絶好の立ち位置を確保している理由は、

  • 明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策している。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)
だからなのだそうです。なるほど、「陸軍の父」であるか否かはさておき、「靖国の父」であることは間違いなさそうですね。

写実か、それともポップアートか

それにしても、先ほどの肖像画、何度見ても「ルチ将軍」に見えるのですが(←

エドアルド・キヨッソーネが描いた肖像が現存する。但し、これは本人を直接見て描かれてはいない。そのため実際の顔とは似ていない可能性もある。
(Wikipedia 日本語版「大村益次郎」より引用)
かなり「二次創作」入ってるっぽいです(笑)。

文中敬称略。「ルチ将軍」云々のくだりは少々悪ふざけが過ぎるかもしれませんが、大村に悪意を抱いているわけではないので、悪しからずご了承願います。

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2010年1月24日日曜日

慰霊之泉

「巡礼の年」じゃなくて「慰霊之泉」

「石碑シリーズ」は一旦中断で、続いてはオブジェのご紹介です。
ライティングが全くダメダメですが、その辺はスルーの方向でお願いします。

これは「慰霊之泉」というもののようです。オブジェなので、案内板の説明が無いと意義からしてさっぱり解らないわけですが……。

慰 霊 之 泉 ─戦没者に水を捧げる母の像─
戦没者の多くは 故国の母を想い 清い水を求めながら 息を引き取りました
この彫刻は 清らかな水を捧げる慈愛に溢れる母を 抽象的に表現したものです
また この母の像の外壁は 日本古来の宮や社にある固有の 簡素なたたずまいを表します
そして背後には 第二次世界大戦激戦地の戦跡の石を収集して 展示しております

                建設 昭和42年4月18日
                改修 平成16年3月16日
                      奉納 社団法人東京キワニスクラブ

キワニスクラブは 恵まれない人々 特に子どもたちを支援する民間の奉仕団体です 1915年米国ミシガン州デトロイト市で創設され 東京キワニスクラブは 1964年アジア太平洋地域で 最初のクラブとして誕生しました
(靖國神社内「慰霊之泉」案内板より全文引用)
えーと……、句読点が無いですね……(← そこか)。それに、どことなく日本語が変なのもちょっと気になりますが、それは気にしすぎ、なのかも知れませんね。

キワニスクラブ」という団体は初めて聞いたのですが、どうやらロータリークラブライオンズクラブと肩を並べる、世界三大奉仕団体のひとつなのだそうです。その割にはマイナーな気もするのですが、うん、確かにマツダや西武と比べると……(← 関係ありませんから)。

スターリンかフセインか、それとも……

続いて、参道のど真ん中にひときわ高く聳え立つ人物の像が。
これはスターリンかサッダーム・フセインか、あるいはニコラエ・チャウシェスクか……(←
さすがにそんな面白い(失礼)ことは無く、ふつーの日本人の像でした。この人は……またちょいと長くなりそうなので、今日はこの辺で。

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2010年1月23日土曜日

田中支隊忠魂碑

石碑シリーズ第 2 弾(←

石碑シリーズ第 2 弾(←)、今回は「田中支隊忠魂碑」です。
相変わらず何を顕彰しているのか(私には)良く解らないので、案内板の内容をまるごと引用してみます。
このように、びっしりと文字で埋まっています。この案内板に目を止めていたのは私ひとりでしたが……。

田 中 支 隊 忠 魂 碑
   昭和九年二月二十六日田中支隊生存者山崎千代五郎等建設
   昭和四十三年二月二十七日再建
   平成八年九月三日現在地に移設

 第一次世界大戦は、四年余にわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正六年(一九一七年)三月、革命が起り、翌年三月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍は殆ど解体状態となった。
 当時オーストリア・ハンガリー軍のチェコ・スロバキア人兵士の中からロシア軍に投降し、連合国軍側に協力していた約五万のチェコ・スロバキア軍団は、ウラジオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動していたが、各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本、アメリカ、イギリス、フランス等の各国はチェコ・スロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣することを決した。
(靖国神社内「田中支隊忠魂碑」案内板解説文より引用)
なるほど、いわゆる「シベリア出兵」の頃の話なのですね。それにしてもなかなか秀逸だと思わせるのが「チェコ・スロバキア軍救援の名目で」という一節です。つまり、「チェコ・スロバキア軍の救援」はあくまでタテマエであり、真意は別のところにあった、ということを自ら認めているわけで……。これは「正しい歴史認識」と言えるでしょう(笑)。

実際、Wikipedia にも

そこで日本は同地域において(白系ロシア人)を核とした白軍にもとづく傀儡政権の樹立を意図したとされる[要出典]。
(Wikipedia 日本語版「シベリア出兵」より引用)
とある通り、少なくとも「チェコ・スロバキア軍救援」が主たる目的では無かった、という見解は衆目の一致するところと思います。

「てにをは」が……

さて、では「人間 OCR」を続けますか。

 日本からは第十二師団が派遣されることとなり、大正七年(一九一八年)八月、ウラジオストクに上陸し、九月初めにはハバロフスクに進軍した。田中支隊が属する歩兵第七十二聯隊は、更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方面の過激派討伐に任じたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置し苦戦を強いられていた。第三大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配属を受けて田中支隊を編成し、大正八年(一九一九年)二月二十五日、敵の退路を遮断する任務を受け、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が北方に退却しつつあるのを知り、香田驍男歩兵少尉の指揮する小隊(四十四名)を偵察のために先遣したが、約二十倍の敵の攻撃を受け負傷者三名の外全員戦死した。支隊主力(一五〇名)は香田小隊を赴援中、二十六日朝香田小隊を覆滅した敵と遭遇したが衆寡懸絶して包囲され、敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受けて自刃し、全員壮烈な戦死を遂げた。更に、配属の砲兵中隊及び歩兵一小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し、負傷して戦場を退いた五名の外一〇七名悉く火砲と運命を共にした。
(靖国神社内「田中支隊忠魂碑」案内板解説文より引用)
センテンスが長すぎます。という点はさておき……。さらに言えば「てにをは」が何かおかしい、というのも置いといて……(←)。

ご参考までに、Google Map へのリンクもどうぞ:ユフタ

「シベリア出兵」は、「出兵」という微妙なニュアンスで語られますが、少なくともソ連とは事実上の交戦状態にあったわけで、先遣隊が武運拙く「敵」の大部隊に逆襲されて全滅した、という話……ですよね。つまり、昨日ご紹介した「常陸丸」の件以上に、「戦争(紛争)における部分的な負け戦」でしか無いような気がするのです。その後、太平洋戦争中にもっと悲惨な目に遭った人は、軍人・軍属以外にも民間人にもわんさかといる訳で……。

右も左もロシア関連

面白いことに、大山巌の銅像しかり、常陸丸殉難記念碑しかり、そしてこの田中支隊忠魂碑しかり。いずれもロシア(ソ連)にゆかりのある事例ばかり、です。今日からマ元帥!(← やめなさい)が、ロシアとの遺恨を後世に知らしめるべく、意図的にいくつかのモニュメントだけを選択して存置した、という可能性も考えられそうですが、どうなのでしょうか。

最後の部分

最後に、締めの部分を丸々引用しておきます。権利侵害が疑われるようでしたら、おそれ入りますがコメント等でご連絡をお願いします。

 この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏等が戦友の悲壮な最後を想起し、その神霊を慰めるため昭和九年二月二十六日、九段坂下に建立されたものを平成八年九月三日現在地に移設したものである。
 本碑台座部分には、大正八年二月二十七日、第十二師団大井成元陸軍大将から同支隊に授与された感状(昭和四十三年二月二十七日再建復刻)が刻まれている。
   平 成 八 年 九 月 三 日
                     歩 兵 第 七 十 二 聯 隊 戦 友 会
                     靖   國   神   社
(靖国神社内「田中支隊忠魂碑」案内板解説文より引用)

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2010年1月22日金曜日

常陸丸殉難記念碑

靖国神社に入って、最初に見かけたのがこちらの石碑です。
リサイズの結果、字が潰れかかっていますが、「常陸丸殉難記念碑」と書いてあります。「ヒガシマル」とか「源五郎丸」あたりは聞いたことがあるのですが(何か違う)、「常陸丸」というのはちょっとわからないですね。どんな話でしょうか?
ということで、人間 OCR、行きますよー☆(←

常陸丸殉難記念碑
 明治三十七年(一九〇四)日露戦争が勃発し、同年六月十四日、後備近衛歩兵第一聯隊長須知中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列と共に、常陸丸に乗船して宇品を出港し、勇躍征途に就いた。翌十五日午前十時頃、沖ノ島附近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現われ、猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、全く応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相継いで斃れた。
 野戦攻城にかけては鬼神をも取り拉ぐべき益良雄も、海上では如何とも為し難く、今はこれまでと覚悟した聯隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後従容として自決し、大隊長山縣少佐以下一千有余名の勇士も、無念の涙を飲んで玄海灘の波間に没した。
 武備なき輸送船常陸丸の悲劇は、その後数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。
 昭和六十一年六月十五日
  殉難八十二周年慰霊祭にあたり誌す
              常 陸 丸 遺 族 会
              全 国 近 歩 一 会

碑の裏面には、荒木貞夫陸軍大将の選文揮毫による碑文が刻んである。
(靖国神社内「常陸丸殉難記念碑」より、全文を引用)

うーん……なんで石碑が?

うーん……。「海戦の装備を持たない」とは言え、常陸丸は「軍用船」だったわけですよね。であれば交戦国の艦船に砲撃されるのは当たり前のような気が……。もちろん「無念の死」を遂げた常陸丸の乗員各位には哀悼の念を表しますが、もっと悲惨なケースは山ほどあるような気がします。

例えば、太平洋戦争中に軍に徴発された商船の多くも魚雷で沈められたと言いますし、学童疎開船「対馬丸」の話なんて、悲惨なケースの最たるものですよね。「勝ち戦」における「犠牲」は手厚く顕彰される、という例かもしれません。

「つぼのいしぶみ」ではなく……

続いて、こちらは「つぼのいしぶみ」ではなく(←)……
「田中支隊忠魂碑」だそうです。ガダルカナルで全滅した「一木支隊」の名前は聞いたことがありますが、「田中支隊」というのはちょっと聞いたことがありません。

……ちょっと長そうなので、明日にしてもいいですか?(← 誰に聞いている

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2010年1月21日木曜日

イデオロギーの相克か、胸踊るスペクタクルか

品川さん……だそうです

九段坂公園には、大山巌の銅像の他に、品川弥二郎の銅像もありました。
はい、全くもってどんな方だか存じ上げませんです。

品川 弥二郎(しながわ やじろう、天保14年閏9月29日(1843年11月20日)- 明治33年(1900年)2月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。勲一等子爵。名は省吾、弥吉。号は扇洲。別称に橋本八郎松本清熊などがある。
(Wikipedia 日本語版「品川弥二郎」より引用)
なるほど。随分と昔の人ですね(あっさりと片付けた)。

許可を得ずに撮影(←

そして、歩道橋を渡れば靖国神社なのですが……、正直「帰ろうか」と思ったことをここに告白します。そう、この日は 12 月 23 日、今上陛下の誕生日であり、また、東條英機以下 7 人の A 級戦犯が "Death by Hanging" に処された日でもあります。そして彼ら *も* 祀られている靖国神社の前は、
ええ、こんな車両がわんさかと、といった状態でしたので。

イデオロギーの相克か、胸踊るスペクタクルか

とは言え、「一聞は内田百閒に如かず」じゃなくて「百聞は一見に如かず」という話もあるわけで、勇気リンリン足を踏み入れることにしました。
「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」の人気(ひとけ)の無さとは打って変わって、想像を絶する人の多さです。こんなの混んでるうちには入らないのでしょうが、Bojan さんはとにかく人混みが嫌いなのです(←

これからどんな光景が繰り広げられるのか、果たしてイデオロギーの相克があるのか、不安と期待でドキをムネムネさせながら先に進みます。

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2010年1月20日水曜日

今日からマ元帥!(←

Go West~♪

九段下のお堀端に銅像が未だに残されている大山巌についてのお話(つづき)です。

大山は非常に西洋文化への憧憬が強く、また造詣も深かった。捨松との再婚の時の披露宴招待状は全文がフランス語で書かれた物で人々を仰天させたという。陸軍大臣公邸を出たあとに建てた自邸はドイツの古城をモチーフとした物だった。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
あははは……(乾いた笑い)。まぁ「全文フランス語」や「ドイツの古城をモチーフ」の是非はさておき(さておかせてくださいな(笑))、なかなか「ハイカラ」な人だったようですね。三国干渉以降、あるいは満州事変以降の風潮にあっては「西洋かぶれ」と揶揄されたかもしれませんが、「脱亜入欧」とシャウトしていた時代にあっては、かなりの「知識人」と目されていたのではないかと思います。

また後藤象二郎、西園寺公望らと共に「ルイ・ヴィトンの日本人顧客となった最初の人」として、ヴィトンの顧客名簿に自筆のサインが残っている。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
……。うん、ブランド物もお好きだったのですね(笑)。ヴィトン恐るべし。

銅像はどこへ行った

さて、問題はこの銅像です。
二日続けて同じ写真ですが、気にしてはいけません(←)。

それはさておき(さておいた!)、日本が 1945 年に太平洋戦争に敗れた結果、「軍国ニッポン」は完膚なきまでに全否定された筈でした。教科書にもモザイク……じゃなくて墨消しが入れられたわけで、徹底的な思想改造が行われた……と聞きます。

しかし、こうやって武道館からお堀端のあたりを散歩してみただけで、今でも「北白川宮能久親王」や「大山巌」といった「帝国軍人」の銅像を見ることができます。教科書にモザイクを入れる(← 違う)といった徹底的なイデオロギーの糊塗が行われた一方で、「軍人さん」の銅像がそのまま残されていることに大いなる矛盾を感じたわけですが……。

今日からマ元帥!(←

この矛盾?への回答として、こんな説が Wikipedia に紹介されていました。

第二次世界大戦後、GHQの指令で軍人の銅像が軍国主義の象徴として次々と鋳潰されるなか、軍装で馬にまたがったりりしい姿の大山像は破却を免れた。そこには連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの差し金があったことはあまり知られていない。マッカーサーにとって大山巌はナポレオンとならぶ英雄で、かねてよりその肖像画を自宅の書斎に飾るほど崇拝していたという。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
「また『マ元帥』かよ」とお思いのあなた、そう、その通りです。かの「まるマシリーズ」でおなじみの(違う)「マ元帥」です。

まぁ、Wikipedia には典拠が記載されていないので裏を取りようが無いのですが、十分に蓋然性の高い仮説ではあります。さらに穿った見方をすれば、大山巌は大国ロシアを破った功労者ではありますが、アメリカに対しては何ら害を及ぼしていない……というところもあり、「日本はロシアには勝った(でもアメリカには負けた)」という事実をさりげなく誇示する意図もあったのかな、などとも。既に領土への野心丸出しのスターリンを警戒していたでしょうし。

九段坂公園の銅像ひとつ取ってみても、色々と考えさせられるものです。え、そんなの私だけ?

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2010年1月19日火曜日

今日もどこかでアタックチャンス(←

右翼の大物はそんなの関係ない(←

風呂に浸かりながら続編の構想を練っていた(←)のですが、あろうことか「児玉源太郎」の代わりに「児玉誉士夫」という名前が頭に浮かんでしまって「んなアホな」と思ってしまった Bojan さんですこんばんは。

「児玉誉士夫」はロッキード事件に関わったとされる「右翼の大物」です。事件が露見した頃には自宅にセスナで自爆テロをされたこともあったらしいですが、実は(自称)CIA のエージェントだったと言うから恐れ入ります。

最近、「国策捜査がどーのこーの」という話もありますが、ルーマニアやウクライナでの CIA の活躍を見せられると、国策捜査のひとつやふたつ、彼らなら平気でやらかすだろうなぁ、などとも考えてしまいますね。今の民主党政権がアメリカの国益にかなうとは思えませんし。こうも都合よく非自民政権が自滅するのを何度も見せつけられると、さすがにちょっと変だなぁ、なんて……。

ひらがなだと一文字違いの「小島よしお」という人もいますが、そんなのは関係ないです。「児玉清」もどことなく音の雰囲気が似ていますが、これまたそんなの関係ないです。アタック・チャンスっ!

西南戦争の時にアレをナニした人……じゃなくて

かなりグダグダになったので、本題に戻りますか。
こちらが松永幹夫……ではなくて「元帥陸軍大将 大山巌 公」です。

明治前期には陸軍卿として谷干城・曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼の所謂「四将軍派」との内紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって勤め、また、参謀総長、内務大臣なども歴任。元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられることを終始避け続けた。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
谷干城(たに たてき)と言えば、西南戦争の時にアレをナニした人ですよね(←)。正確には官軍を指揮して熊本城に立てこもり、薩摩軍から熊本城を死守して、田原坂の戦いでの勝利につなげた人物、でした。あぁ、やっぱこの辺は苦手だ……。

西郷従道(さいごう じゅうどう)は、かの西郷隆盛の実弟ですが、西郷兄弟は大山巌の従兄弟にあたります(父親同士が兄弟)。

勝てば官軍(←

そんなわけで、大山巌も立派な「肥後もっこす」……じゃなくて「薩摩隼人」だったわけですが、西南戦争では官軍側の一員として戦います。

  • 西南戦争では政府軍の指揮官として親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
まぁ、西南戦争自体が「士族の雇用対策」というか「ガス抜き」のような側面があった(ような気がするんだけどな)わけで、起こるべくして起こった?ような感じすらします。言い換えると「私怨による戦い」では無かったと(個人的には)思っているのですが、大山と西郷家との交友は図らずもその図式を証明しているように感じられます。

今日もどこかでアタックチャンス(←

  • 大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。これは薩摩に伝統的な総大将のスタイルであったと考えられる。日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
とまぁ、丸々とした巨躯と相まって「ムードメーカー」的な存在だったようですが、

  • 明治38年(1905年)12月7日にようやく東京青山(原宿)の私邸に凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている。「茫洋」か「俊異」かという事項についての大山自身によるひとつの解答であろう。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
雰囲気を和ませるために計算してキャラを作っていた、というのですから恐れ入ります。こういった逸話を見る限りでは、かなり優れた人材だったように思われますね。

……というところで、軽くネタを振って今日はここまで。では、次回も、私の研究室でお待ちしております(←

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2010年1月18日月曜日

元帥陸軍大将大山巌公像

地図どうぞ

千鳥ヶ淵緑道を散策して、インド大使館の前を通り過ぎ、田安門のあたりに戻ってきました。
案内板の地図を撮影してみたのですが、ちょっとこれだと字が潰れて見えないので……。
主要な部分を拡大してみました。

元帥陸軍大将大山巌公像(見えないけど)

さて、まず見えてきたのが「元帥陸軍大将大山巌公像」です。
元帥と言えば、やっぱり「グズ元」の愛称で親しまれた(何か違う)「杉山元元元帥」の名前がどうしても頭に浮かんでしまうわけですが……。だって「元元元」ですよ。なんだか凄いじゃないですか(←

一応、答え合わせをしておきますと、杉山 元(はじめ)元(もと)元帥(げんすい)です。

それにしても世界の Google は素晴らしいですね。「グズ元」で検索しても Wikipedia の「杉山元」のページをトップに引っ掛けてきます。本文中にはただの一言も「グズ元」なんて書いていないにも関わらず、です。

「グズ元」の話題はまた今度

……この調子だと「グズ元」で一本行きかねないので、本題?の「大山巌」に戻りましょう。

大山 巌(おおやま いわお、天保13年10月10日(1842年11月12日) - 大正5年(1916年)12月10日)は、日本の武士、政治家、元老、軍人。通称は弥助。雅号は赫山、瑞岩。字は清海。元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活躍した軍人。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
なるほど。今、流行りの(?)日露戦争の頃に活躍した人なんですね。幕末から明治維新のあたりの歴史はあんまり興味がなくて、自分の中ではウィークポイントなんですが、まさにその時代の人、ですね。

連想ゲーム(←

ちなみに、「日露戦争と言ったら誰?」という質問に対しては、東郷平八郎乃木希典ステッセル(←)、百歩譲って児玉源太郎、で終わってしまいます。

そうそう、確か池波正太郎だったと思うのですが、著作のあとがきにて何の説明もなく「かの乃木希典だった」といった文章を書いていたことがありました。つまり、乃木は「言わずもがな」の存在だったことが窺い知れるわけですが、最近では、ごく一部の「日露戦争マニア」以外は「それって誰? てゆーか読めないし」と言いそうな気が……。うーん、なんか複雑な心境。

念のため答え合わせですが、乃木(のぎ)希典(まれすけ)です。

「乃木希典」の話題はまた今度(←

……この調子だと「乃木希典」で一本行きかねないので、本d(ry

コホン。大山巌の話題に戻りましょう。

維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から同6年(1873年)の間はジュネーヴに留学した。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
いやー、いきなり世界史の話になってきました。普仏戦争ですからね。プロイセンですからね。

陸軍では順調に栄達し、西南戦争をはじめ、相次ぐ士族の反乱を鎮圧した。日清戦争では陸軍大将として第二軍司令官、日露戦争においては、元帥陸軍大将として満州軍総司令官に就任。ともに、日本の勝利に大きく貢献した。同藩出身の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
ふむふむ。個人的に東郷平八郎よりもインパクトに欠けるのは、やっぱ名前のインパクトに依るものが大きいのでしょうか(←)。「希典」とか「征四郎」とか「莞爾」なんてのはインパクト大ですが、「直樹」とか「信行」とか「章」は……今でもいそうですからね。

おまけのクイズ

あ、もし良かったら「直樹」「信行」「章」のフルネームをどなたか答えてみてください。全員、戦前にそれなりの地位にあった人たちです。

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2010年1月17日日曜日

Far away, I couldn't hear you're callin'

In the misty morning...

Royal Hunt という、デンマークで結成されたプログレッシブメタルバンドの "Far Away" という曲を聴いていました。1995 年に発表された曲で、他ならぬ「阪神・淡路大震災」の被災者に捧げられた曲だ、と聞きました。

ただ、裏付けは取れてません。まぁ、日本国内の Web サイトのみならず、他言語での Web サイトでも言及されているケースは見つかったので、全くのデマでも無いとは思いますが……。

Promises are broken now you're gone.

歌詞の引用は権利団体(ドコ?)の方々が色々とアレなので(←)断念しますが、まぁ、「"Royal Hunt" "Far Away" Lyrics」でググれば一発、ということで……。

歌詞の中には「地震」だの「天災」だのと言ったキーワードは一切出てきませんが、言われてみればそのまんま、しっくり来る歌詞ではあります。約束を交わした人と突然生き別れになった、というシチュエーションが読み取れるわけで、さらに言うならば "In the misty morning after darkest night" という歌いだしが「いかにも」といった感じです。

"After the darkest night" じゃなくて "After darkest night" ですが、ま、気にしてもしょうがないですし。

I'm lost and I surrender...

ちなみに、当時私は「震度 5」の地域に住んでいました。就寝中だったのですが、今まで経験したことの無い揺れにさすがに目を覚まし、多少の驚きと戸惑いを感じながら揺れが収まるのを待ったような記憶があります。

少し時間が経ってから、テレビを観るために階下に降りたのですが、「震度 5」や「震度 6」といった表示が地図上に並ぶ中、神戸の震度だけが空欄のままだったことを覚えています。「これは大変なことになった」と朧気に感じたものですが、この感覚が朧気なものに過ぎなかったということは、後で嫌というほど思い知らされることになります。

自分の部屋に戻ると、スチール製の本棚が「平行四辺形」にひしゃげてました。本棚ですから、本来、正面から見ると「長方形」になっている筈なのですが、それが「平行四辺形」にひしゃげていたわけです。本棚はホントの枕元(枕の後ろ)に置いていたので、正面に本棚が倒れてきたら危ないところでした。何しろ本の数が半端じゃなかったですから……。少なくとも脳震盪は起こしていたのではないかと。

Far away, I couldn't hear you're callin'

あれから 15 年……ですが、早くもなく遅くもなく、といったところでしょうか。Royal Hunt は "No one is to blame..." と歌っていますが、反省が必要な人は少なからずいるような気がします。具体的にはマスコミ、それもテレビ局関係者ですね。意味もなくヘリコプターを飛ばし、轟音で地上のかすかな声をかき消し、気流で火を煽ったのは犯罪行為と捉えられても反論はできない筈です。

心あるマスコミ人は十分反省していることと思いますが、その反省をきちんと次代に引き継ぐことを願ってやみません。

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2010年1月16日土曜日

やっぱ神社は神社、なんだなぁ、と

ダウンサイジング(ちょと違う)

ちょっとお疲れ気味なので、またしても写真主体の「楽な記事」です(すいません)。

Embassy of...

というわけで、いつぞやの続きの話を。千鳥ヶ淵緑道を歩いていると、なにやら立派そうな建物が見えてきました。なにやらサントリーのロゴのようなものが張り付いていますが、これは一体……
答えは「インド大使館」でした。そういえばどこからとなくカレーの匂いがしたような気がする……というのは全くのウソですごめんなさい。

神社は神社だし……

さて。千鳥ヶ淵緑道はここまで。目の前を眺めてみると……
早くも正月ムード満点です(注:12/23 に撮影したものです)。
皆さん、初詣はもう済まされましたか?(さすがにもう済んでいると思いますが……)。

うわー、文字数少なっ!

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2010年1月11日月曜日

キング・ヒロの真実

生粋の関西人です

かつて「ヒロ松下」というインディカーレーサーがいたのをご記憶の方もいらっしゃるかと思います。どことなくバタくさい名前ですが、本名を「松下 弘幸」という生粋の関西人です。

生い立ち
パナソニックの創業者である松下幸之助の孫として兵庫県西宮市に生まれる。
(Wikipedia 日本語版「ヒロ松下」より引用)
てなわけでして、

モータースポーツ
モトクロスやシビック・ワンメイクレースなどを経て、1986年にアメリカに渡り、フォーミュラ・フォード、IMSA GTP、フォーミュラ・アトランティック(現在のアトランティック・チャンピオンシップ)、ARSなどに参戦する。1989年にフォーミュラ・アトランティックでチャンピオンを獲得し、1990年よりトップカテゴリーのCART(後のチャンプカー・ワールド・シリーズ)に参戦した。インディ500に参戦した初の日本人ドライバーで、過去最高位は10位入賞(1995年)。
(Wikipedia 日本語版「ヒロ松下」より引用)
という実績を残しています。F1 を目指すのではなく、当時(今も?)比較的マイナーだったアメリカンモータースポーツの頂点(フォーミュラとしては)を目指すあたり、なかなか目利きですよね。

インディカーってこんなのです

参考までに、当時エマーソン・フィッティパルディがドライブしていた Penske の写真をどうぞ。
(Wikimedia Commons より借用。この作品の著作権者である Morio 氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。:
The Creative Commons Attribution ShareAlike 3.0 License.

いやー、やっぱ Penske 格好良いです。McLaren MP4/4 よりも更に格好良く見えますねー。

As a result, he has always carried Panasonic sponsorship.

さて、そのヒロ松下さん、英語版の Wikipedia では次のように記されています。

Hiroyuki "Hiro" Matsushita (ヒロ松下 Hiro Matsushita, born March 14, 1961, Kobe, Japan) (full Kanji:松下弘幸), is a former driver in the Champ Car series. He is the grandson of Konosuke Matsushita, founder of Matsushita Electric Industrial Co.; as a result, he has always carried Panasonic sponsorship.
(Quoted from Wikipedia, "Hiro Matsushita" )

やっぱりアメリカで活躍しただけあって、英語版のページのほうがむしろ内容が濃いですね。中でも "as a result, he has always carried Panasonic sponsorship" という一文は正鵠を射ています。敢えて和訳すると「結果として、彼は常にパナソニックのスポンサードを持ち込んできた」といったところでしょうか。もっとも Panasonic の偉いところは、ヒロ松下が(実質的に)引退した後も IndyCar へのスポンサードをちょくちょく行っているところですね。昨年は Andretti Green Racing の武藤英紀のスポンサーをしていましたし。

キング・ヒロの真実

さて、ヒロ松下の話に戻しますが、目を見張るほど速いレーサーだったかと言うと、うーん……ということで、まぁ、結構周回遅れになることも少なくなかったわけです。逆に言えば着実なレーサーだったとも言えるわけですが、Wikipedia 日本語版にはこんな記述もあります。

ニックネーム
CART時代に完走率の高さからマイケル・アンドレッティより「KING HIRO」のニックネームを頂戴する。
(Wikipedia 日本語版「ヒロ松下」より引用)
1990 年代前半ですから、「キング・カズ」のニックネームは既にあったんでしょうかねぇ。とりあえず、ここに「キング・ヒロ」が誕生したわけです。

一方、英語版の記事には全く異なる事実が記載されています。

Nickname
Matsushita earned the nickname "King Hiro" from Emerson Fittipaldi, who was complaining about Hiro's reluctance to cede track position when getting lapped by the leaders.
(Quoted from Wikipedia, "Hiro Matsushita" )

他ならぬ、元 F1 チャンピオンでインディ 500 も 2 度ほど制覇したエマーソン・フィッティパルディが名付け親だとしています。そして、その理由は「周回遅れにされる際にコースを譲ろうとしないから」なのだとか(笑)。つまり、エモはヒロに対して憤っていたわけなのですが、では、何故「キング」なのかという謎が出てきます。これはエモならではの皮肉なのかと言えばそうでもなくて、以下のような「理由」があったそうです。

The nickname came about as a result of Emerson's habit of pressing the "talk" button on his radio about half a second after he'd started speaking, thereby cutting off the first syllable of the first word he used. Fittipaldi, allegedly, had intended to say "Fucking Hiro!"
(Quoted from Wikipedia, "Hiro Matsushita" )

軽く和訳しますね。

このニックネームは、無線の『通信』ボタンを押すのが発話よりほんの少し遅れるエマーソンの癖のため、彼が口にした最初の単語の最初の音節がカットされていたことに依るものだった。伝えられるところに依ると、(エマーソン)フィッティパルディは『***king Hiro !』と言おうとしていたとのことである。

ってことで……ぎゃっはっはっは!!

いやぁ、世の中知らない方が良いこともあるって事ですねぇ(笑)。

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2010年1月10日日曜日

アスモ前はアスモ前であり、それ以外の何物でもない

しゃららーら♪

駅ナカに歯科がある「知波田駅」を過ぎると、終点の「新所原駅」まで、もう少しです。比較的最近になって新設された「大森駅」を過ぎると、次は「アスモ前」駅です。

なんだかホームでロボットが出迎えてくれそうな名前ですが、決してそんなことは無くて(だって一文字違うし)。どんな所かと言いますと……。
(Wikimedia Commons より借用。この作品の著作権者である「駿遠線」氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。:
クリエイティブ・コモンズ 表示 3.0 非移植ライセンス)

そう、この「アスモ前」駅、駅前広場はおろか付近に道路すらありません。車で乗り付けることは不可能な、一種の「秘境駅」とも言える存在だったのでした。

アスモ前はアスモ前であり、それ以外の何物でもない

地図もつけておきましょう。
はい。確かに「アスモ前」で、それ以外の何物でもありません。特筆すべきは、この駅の出口はアスモ株式会社の敷地に直結していて、ほかには何処へも行けない構造になっている……ようなのです。つまり、まさに「アスモ前」であり、それ以外の何物でもないわけで……(← 繰り返し)。

営団……じゃなくて東京メトロの銀座線に「三越前」という駅がありますが、これはある意味「ネーミングライツ売却」の嚆矢となったケースだと言えるかと思います(実際には建設資金も三越が全額負担したらしいですが)。しかし、アスモ前駅の構造を見る限り、仮にアスモ株式会社側の負担がゼロだったとしても、「アスモ前」以外のネーミングは考えられないよなぁ、などと考えてしまいます。
当然(?)、アスモ前では乗降客の姿も無く、列車は終点の「新所原駅」に到着します。途中、天竜二俣で 5 分停車し、金指で 10 分ほど停車した(ダイヤ通り)のもあり、掛川からの所要時間は 2 時間と 11 分ほど。まぁ、疲れなかったと言ったらウソになるかも知れませんが、なかなか楽しい旅でした。たまにはこんな、ローカル線でのんびりと移動するのも良いものです。

おまけ

新所原は静岡県湖西市ですが、二駅先の豊橋駅は愛知県です。愛知県と言えば八丁味噌、ということで……
豊橋駅の売店で買った「味噌カツサンド」です。今頃気づいたのですが、カメラの向こうに立っていたお兄さんと目線が合っていたようなので、モザイク処理を入れておきました。

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