右翼の大物はそんなの関係ない(←
風呂に浸かりながら続編の構想を練っていた(←)のですが、あろうことか「児玉源太郎」の代わりに「児玉誉士夫」という名前が頭に浮かんでしまって「んなアホな」と思ってしまった Bojan さんですこんばんは。「児玉誉士夫」はロッキード事件に関わったとされる「右翼の大物」です。事件が露見した頃には自宅にセスナで自爆テロをされたこともあったらしいですが、実は(自称)CIA のエージェントだったと言うから恐れ入ります。
最近、「国策捜査がどーのこーの」という話もありますが、ルーマニアやウクライナでの CIA の活躍を見せられると、国策捜査のひとつやふたつ、彼らなら平気でやらかすだろうなぁ、などとも考えてしまいますね。今の民主党政権がアメリカの国益にかなうとは思えませんし。こうも都合よく非自民政権が自滅するのを何度も見せつけられると、さすがにちょっと変だなぁ、なんて……。
ひらがなだと一文字違いの「小島よしお」という人もいますが、そんなのは関係ないです。「児玉清」もどことなく音の雰囲気が似ていますが、これまたそんなの関係ないです。アタック・チャンスっ!
西南戦争の時にアレをナニした人……じゃなくて
かなりグダグダになったので、本題に戻りますか。こちらが松永幹夫……ではなくて「元帥陸軍大将 大山巌 公」です。
明治前期には陸軍卿として谷干城・曾我祐準・鳥尾小弥太・三浦梧楼の所謂「四将軍派」との内紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって勤め、また、参謀総長、内務大臣なども歴任。元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理候補に擬せられることを終始避け続けた。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
谷干城(たに たてき)と言えば、西南戦争の時にアレをナニした人ですよね(←)。正確には官軍を指揮して熊本城に立てこもり、薩摩軍から熊本城を死守して、田原坂の戦いでの勝利につなげた人物、でした。あぁ、やっぱこの辺は苦手だ……。西郷従道(さいごう じゅうどう)は、かの西郷隆盛の実弟ですが、西郷兄弟は大山巌の従兄弟にあたります(父親同士が兄弟)。
勝てば官軍(←
そんなわけで、大山巌も立派な「肥後もっこす」……じゃなくて「薩摩隼人」だったわけですが、西南戦争では官軍側の一員として戦います。
- 西南戦争では政府軍の指揮官として親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
まぁ、西南戦争自体が「士族の雇用対策」というか「ガス抜き」のような側面があった(ような気がするんだけどな)わけで、起こるべくして起こった?ような感じすらします。言い換えると「私怨による戦い」では無かったと(個人的には)思っているのですが、大山と西郷家との交友は図らずもその図式を証明しているように感じられます。今日もどこかでアタックチャンス(←
- 大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。これは薩摩に伝統的な総大将のスタイルであったと考えられる。日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
とまぁ、丸々とした巨躯と相まって「ムードメーカー」的な存在だったようですが、
- 明治38年(1905年)12月7日にようやく東京青山(原宿)の私邸に凱旋帰国した大山に対し、息子の柏が「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている。「茫洋」か「俊異」かという事項についての大山自身によるひとつの解答であろう。
(Wikipedia 日本語版「大山巌」より引用)
雰囲気を和ませるために計算してキャラを作っていた、というのですから恐れ入ります。こういった逸話を見る限りでは、かなり優れた人材だったように思われますね。……というところで、軽くネタを振って今日はここまで。では、次回も、私の研究室でお待ちしております(←
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