運河++
ちょっと思うところあって「運河」について調べてました。アラル海縮小の原因となったカラクーム運河であったり、スターリン時代に強制労働で開削されたとされる白海・バルト海運河であったり、イオニア海とエーゲ海を結ぶコリントス運河であったり。表か裏か(それはコイントス
中でも、ギリシャのコリントス運河は全長わずか 6,343 m しか無いものの、標高 50 m ほどの丘を文字通り開削した運河だけあって、とても魅力的な景色が広がります。(Wikimedia Commons より借用。この作品の作者である Alterego 氏は、この作品を以下のライセンスで提供しています。:
このページ付属の画像はフリーソフトウェア財団が発行した GNU Free Documentation License に示されるバージョン 1.2 またはそれ以降のライセンスの下で提供されています )
ここまでの工事をして運河を開削するメリットは……と言うと、なんと航路にして最大約 400 km の短縮が図られるそうです。スエズ運河やパナマ運河ほどで無いにしても、開削する価値のある運河だった、と言えそうな気がします。
Google Earth でどうぞ
というわけで、位置関係を Google Earth で見てみましょう。丸印をつけたところがコリントス地峡なのですが、そこから 80 km ほど東に行くとアテネとなります。ですから、コリントス地峡に運河を開削すれば、それはイオニア海やアドリア海からアテネへの最短ルートになります。
クローズアップしたものも。
いやいや、「これぞ運河!」という感じですね。
コリントス運河の歴史とか
びみょうに尺が余っているような気がするので、コピペ中心で。歴史
コリントス地峡に運河を掘る考えは古くからあり、古代ギリシア時代、紀元前 7 世紀末頃のコリントスの統治者ペリアンドロスもその 1 人だった。その後も幾度か運河開削の構想がおこり、古代ローマ時代にもカエサルやカリグラ帝も関心をもった。
(Wikipedia 日本語版「コリントス運河」より引用)
うーん、さすが歴史の深いギリシャですね。ネロ帝の時代になると、実際に大規模な開削が試みられた。67 年にネロ帝は 6000 人の奴隷を動員して運河の開削を行い、3.3 km あまりを掘ったが、途中、ローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺、彼の死後、帝位についたガルバ帝によって工事は中断された。ネロの時代に計画された運河は現在のコリントス運河があるルートと同じところにあり、古代ローマの土木建設技術の高さがうかがわれる。
(Wikipedia 日本語版「コリントス運河」より引用)
んー、コリントス運河は全長約 6.3 km ですが、そのうち約 3.3 km は古代ローマの時代に完成していた、ということなんでしょうか。航空写真からもわかる通り、コリントス運河はコリントス地峡をほぼ最短のラインで通っているので、これが偶然なのでなければ、確かになかなかの土木技術であるように思えます。コリントス地峡の岩盤はもろいため岩盤が崩落することもあり、大規模な崩落で復旧のため運河が長い間閉鎖されることもあった。また、第二次世界大戦中にはドイツ軍が運河を利用するのを阻止するため、1944 年には意図的に運河を破壊せざるを得ないこともあった。この復旧には 5 年あまりかかった。
(Wikipedia 日本語版「コリントス運河」より引用)
へえぇ、そうなんですね。急角度で切り立った岩肌を見ると、とても安定した岩盤にも見えるのですが、そうではなかったのですね。ちなみにコリントス運河は幅が 20 m ちょいで、大型船の航行は困難だとされますが、これでも軍事的価値はあった、ということなんでしょうかね(小型の輸送船くらいなら通れそうですし)。ということで、壮大なネタふりはこの辺にして、明日からが本題です(ぇ)。
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