2009年7月21日火曜日

インディギルカ号で何があったのか

日本とソ連の間に何があったのか

1939 年 12 月 12 日未明に、北海道は猿払村、浜鬼志別沖のトド岩に座礁し転覆したソ連船「インディギルカ号」についての話題(のつづき)です。

当時、日本(大日本帝国)とソ連は「張鼓峰事件」や「ノモンハン事件」などの小競り合い(事実上「紛争」とも取れる)を繰り返していて、両国間の関係は冷え切っていました。しかしながら、沖合で座礁した「敵国」の民間船に多くの人が取り残されているのを知ると、地元の人たちは、自らも波に呑まれる危険性を知りながらも、大荒れの冬の海に船を繰り出していった……という「エエ話」です。

ちなみに、猿払村には、その 44 年後、ちょいと北側のサハリンに迷い込んだ大韓航空のボーイング(もちろん民間機)がソ連防空軍のスホーイに打ち落とされ、機体の破片や遺品などが流れ着いたこともあります。おそらくは、日ソ友好記念館の前の浜辺にも漂着物があったかも知れません。

ニコライ・ラプシンとは誰か

インディギルカ号の船長はニコライ・ラプシンという男でした。ラプシンは、最後まで転覆した船に留まり、名残惜しそうに救助されていったと言います。ラプシンは救助される際に「自分が最後だ。もう誰も残っていない」と言ったとされます。しかし、あろうことかラプシンが救助された数日後、船上に人影が発見されます。

何人乗っていたのか

また、ラプシンら乗組員に「何人乗船していたのか」を聞いても、なぜか明確な答えは出てきませんでした。救助された人は 400 人余り。どこからか「1100 人くらい乗っていた」という話があったため、犠牲者の数は 700 人余りと推定され、これが公式な犠牲者数となりました。しかし、ソビエト崩壊の前後になって、「実際には 1500 人余り乗船していた」という情報があらわれ、現在はこの数字が真実味を持って語られています。不幸中の幸いは、インディギルカ号が、ウラジオストクとマガダンを結ぶ船の中では比較的小型だったことでしょうか。他にも 2000 人以上を運ぶことができた船もあったとされます。

なぜ座礁したのか

インディギルカ号が座礁したのは、宗谷海峡の中間に存在する孤島「二丈岩」の灯台の光と、宗谷岬の灯台の光を取り違えるという単純な航法上のミスだったとされます。二丈岩の南側を航行しようとして左に舵を切ったところ、実際には宗谷岬の南側(すなわち北海道の陸地)に向かって進んでしまった、という話です。

誰が乗っていたのか

インディギルカ号はウラジオストク(沿海州有数の港湾都市で、シベリア鉄道の事実上の終点)からマガダン(オホーツク海の北岸に位置する都市。囚人労働によって開発が進められた)を往復する船で、主要な目的は囚人の護送でした。刑期を終えた囚人をウラジオストクに回送する途中で座礁したことになります。但し、全ての乗客が囚人だったわけではなく、水産加工業などに従事する労働者とその家族も数百人程度乗船していたとされます。

座礁の後、何が起こったのか

座礁した後、脱出を試みた囚人に対して警備兵が発砲し、次々と射殺された、との証言も出てきました。

救助された後、どう処遇されたのか

運良く救助された囚人は、いずれも「水産加工業に従事する労働者」ということにされました。帰国のために小樽に移送される途中で、商店に雑貨が豊富に並ぶのを見た時も、「あれはわざわざ東京から用意してきたものだ」(日本は良い生活をしているかのように見せかけている)と信じ込まされたと言います。

ニコライ・ラプシンはどうなったのか

お粗末な操船でインディギルカ号を転覆させたラプシン船長は、その後裁判にかけられ、銃殺刑に処されたと言います。もちろんそういった事実は日本には伝えられることなく、猿払村助役だった前田保仁氏はラプシン船長との再会を心待ちにしていたと言います。

なぜコロっと欺されてしまったのか

インディギルカ号が転覆した猿払村には、以前の記事で紹介した通り、村民の皆さんの浄財などにより慰霊碑が建立されました。結果的にはかなりのウソが含まれてしまっている(もちろん、猿払村の皆さんには全く非はありません)ことは、ここで明らかにした通りです。

では、なぜ日本人はこんなウソにコロっと欺されてしまっていたのか。「根本的にお人好しだ」というのも説得力をもって語られますが、こういった「国際的な事件」について掘り下げる姿勢が欠如していた、というのも残念ながら否定できません。

以前に紹介した前田保仁氏の著書にて、インディギルカ号の出港地がカムチャツカではなくマガダンになっていた、という話があったと思います。日本側で「マガダン」と「カムチャツカ」を混同していたという可能性もありますが、当初「カムチャツカ」とされていたのが、実は「マガダン」から来ていた、ということが後になってわかってきた、とも考えられます。

実際、スターリン時代の「囚人労働」に明るい欧米の研究者の間では、1960 年代あたりから、インディギルカ号の正体について、ある程度の確信を持って語られていたとも言います。惜しむらくは、日本ではそういった研究がなされていなかった、ということでしょうか。

なぜ真実を語れなかったのか

原 暉之氏は「インディギルカ号の悲劇」にて、スターリン時代の極東における強制労働の実態を、専門用語をふんだんにちりばめながら明らかにしました。一方、数年前に出版された猿払村助役(当時)の前田保仁氏による「冬の海に消えた七〇〇人」では、思い出話と日ソ友好が話題の中心に据えられていました。

猿払村は、ソ連が実効支配するサハリンとは目と鼻の先です。そして、漁師の仕事場は日ソ国境の海です。ですから、隣人と仲良くする必要性があったとも言えます。非常にデリケートな問題なので詳しくは語りませんが、まぁ、そういうことなのでしょう。

なぜ恐ろしくまとまりが無いのか

いや、語らないのは時間の問題もあるんですけどね。んー、恐ろしくまとまりが無くてごめんなさい!

あ、しまった。まだもう一つエピソードが残っていたんだった……。orz

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