2009年4月30日木曜日

アイヌ語研究の歴史と現在について、コピペ中心でお送りします(←

コピペ中心でお送りします

いい加減「うざったいなー」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、そんなことは気にせずにアイヌ語関連の話題が続きます。いや、何の予備説明も無く「地名解」がどうのとか、「知里真志保」がどうのなんて話をされても何のコトやら……でしょうから、少しばかし前提知識になりそうな話を、コピペ中心でお送りします(←

アイヌ語(-ご、Aynu itak〔アイヌ・イタㇰ〕)は、アイヌ民族(アイヌ)の言語で、話者はアイヌ民族の主たる居住地域である日本・北海道、樺太(サハリン)、千島列島(クリル諸島)に分布する。日本語と同様、「孤立した言語」とされている。
(Wikipedia 日本語版「アイヌ語」より引用)
「ㇰ」(ちっちゃな「ク」)は、Unicode には存在する字なんでしょうか(そうみたいですね)。化けたらごめんなさいです。「孤立した言語」という概念もなかなか興味深いネタですが、今日のところはさておきます。

概説

地理的に近い位置で話されてきたにもかかわらず、日本語との間には、語彙の借用を除いてそれほど共通点が見いだせない。
(Wikipedia 日本語版「アイヌ語」より引用)
「語彙の借用」は、例えば「硫黄」とか「昆布」とか、その辺でしょうかね。探せばもうちょっとある筈です。江戸時代は「北前船」でのアイヌと和人(シャモ)の交易も盛んだったと言いますし。[要出典]

アイヌ語の現状

現在、アイヌ語を継承しているアイヌは非常に少なく、近いうちに消滅してしまうことが懸念されている言語の一つである。1996 年の推定では、約 15,000 人のアイヌの中で、アイヌ語を流暢に話せる人(Active speakers)は 15 人しかいなかった。
(Wikipedia 日本語版「アイヌ語」より引用)
とまぁ、こんな感じで、ある意味では極めて深刻な状態にある言語でもあります(まるでアムールヒョウみたいですね)。

アイヌ語研究の歴史と現在

ま、そんなわけでユネスコからは「極めて深刻な消滅の危機状態にある」と指定されたアイヌ語ですが、皮肉なことに明治以降の和人の流入が「アイヌ語研究」を活発化させたという一面もあります。

アイヌ語の研究

アイヌ語の話者の寡少に比して、アイヌ語は活発に研究されてきた。金田一京助とその弟子である久保寺逸彦や、アイヌである知里幸恵・知里真志保姉弟らがまず挙げられる。
(Wikipedia 日本語版「アイヌ語」より引用)
というわけで、ようやく「知里幸恵」と「知里真志保」が出てきました。夭折した姉の幸恵とは違い、弟の真志保はのちに北大で教鞭を執るまでになり、アイヌ語(特に地名研究の助けとなるもの)関連の書物を何冊か残しています。

知里真志保先生について

知里真志保先生がどんな方だったかと言いますと……。

知里 真志保(ちり ましほ、1909 年 2 月 24 日 - 1961 年 6 月 9 日)は、北海道幌別町字登別町(現在の登別市)出身の、アイヌの言語学者。専攻はアイヌ語学。姉は、『アイヌ神謡集』の著者・知里幸恵。大学での指導教授は、金田一京助。
(Wikipedia 日本語版「知里真志保」より引用)
ちなみに、1943 年に北大文学部教授になっています。

真志保は京助を敬愛していたが、アイヌとしての自意識もあり、感情的な部分も含めて、学問的な批判は京助に対しても容赦しなかった。 また、先駆者であったジョン・バチェラーはもとより、研究仲間だった河野広道や更科源蔵、高倉新一郎らの著述における問題についても辛辣な批判を繰り広げた。      
(Wikipedia 日本語版「知里真志保」より引用)
そうなんですね。明治に入ってから「蝦夷地」が「北海道」と改められるとともに、「同化政策」という名の、事実上のアイヌ絶滅政策が取られることになります。その頃に宣教目的で蝦夷地にやってきて、アイヌに関する見聞を書物にまとめるなど、アイヌ語研究の先駆けとも言うべき人物にジョン・バチェラー(John Batchelor)というイギリス人がいます。

また、同じく明治期に、官命によりアイヌ語地名の調査を行った永田方正という人物もいます。永田方正の成果として著名なのが「北海道蝦夷語地名解」になります。

知里真志保は大正から昭和にかけての人物で、主に戦後に活躍した人物ですが、「偉大なる先達」であるはずのジョン・バチェラーや永田方正に対しても、舌鋒鋭く批判すべきは批判を重ねた人物でした。ある意味では学者としてあるべき姿とも言えますね。

次回予告「知里真志保先生の炸裂する舌鋒」

つまり、現代に生きる私たちにとっては、永田の「地名解」にアイヌ語地名研究の原点を見いだし、そして知里真志保の「地名アイヌ語小辞典」などに、整然と体系立てられた、学問としての「アイヌ語地名学」を見ることができるわけです。

「旭川」のような「誤訳の歴史」を識る上では、永田の「地名解」はとても良いテキストなわけで。歴史的な資料としては、じゅーぶんに価値があります。

前フリ長くてすいません。次回は「知里真志保先生の炸裂する舌鋒」の実例をお目にかけようと思います。もし、読後に気分を害しても責任は負いませんのでその点ご注意を(笑)。

「アイヌ語」の書庫を作ったほうがいいかもですね……。

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2009年4月29日水曜日

「蝦夷語地名解」に見る仁宇布の語源

そういえば、最近、書き出しに苦労することがなくなりました。Blog を書くのがようやくちょっとうまくなったのかな、なんて思ったりもしましたが、何のことはない、単に書き出しが唐突になっただけでした。:-)

今日なんて「仁宇布は」で始めようとしましたからね。

仁宇布は

仁宇布は、北海道中川郡美深町の集落で、「日本一の赤字線」としても知られた国鉄美幸線の終点だったところでした。どことなく「ニヴフ」と字面が似ている「仁宇布」ですが、その由来はと言うと……。

「蝦夷語地名解」に見る仁宇布の語源

はい。ということで、ここで永田方正先生の畢生の大作「蝦夷語地名解」にお出まし願いましょう~!
ちょっと見えにくいかも知れないので、トリミングしたものもおつけしましょう。
はい。仁宇布の意味は「?」ということがわかりました(←

ちなみに、「パンケ ニウ」と「ペンケ ニウ」がありますが、「パンケ」が「下流の」、「ペンケ」が「上流の」という意味になります。まぁ、これがわかったところで、肝心の「ニウ」の意味がわからないのではどーしよーもありません。

「地名アイヌ語小辞典」に見る仁宇布の語源

まぁ、所詮「永田地名解」も明治の書物です。アイヌ語の研究などろくすっぽ行われていなかった時代でしょうから仕方がないでしょう。

というわけで、今日も知里真志保先生の「地名アイヌ語小辞典」を見てみます。

まず、

ni-pu にプ 【ビホロ】森中の川端に立てて冷凍鮭を貯えておく倉。[林・倉]
(知里真志保「地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センターより引用)
というのが見つかりました。しかしこれでは「にぷ」あるいは「にーぷ」となるのが精一杯で、「にうぷ」に持って行くのは少々厳しそうです。

じゃ、ちょと自分で考えてみますか

となると、複数の単語を組み合わせるしかありません。仮に ni-un-pu だとすると、「木(林・森)-そこにある-倉」つまり「森にある倉」となります。

あるいは ni-up だとすると、「木(林・森)-トドマツ」となります。この語順で「トドマツの森」という解釈が成り立つのかは、アイヌ語の文法には全く明るくない私には判断できないですが……。

ちなみに、仁宇布の中心部を流れる川は「ペンケニウップ川」とされています。「ニウップ」が「ニウプ」から転じたのだとすると、「森にある倉」説が少しだけ妥当なように思えてきます。

あー、でも「地名解」には niup と書いてあるしなぁ。「トドマツの森」という意味が文法的に正しいなら、こっちが本命かも。

あ、そうそう。やはりと言うか、「ニヴフ」とは全然関係なさそうです。(←

仁宇布の現在

なお、現在の仁宇布には、倉……はともかく、スバルのテストコースがあるそうです。

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2009年4月28日火曜日

日の出の川は波打っていたか

「旭川」という地名が、市内を流れる「忠別川」の誤った意訳に由来するらしい……という話を昨日ちらっとしたような記憶がそこはかとなくあるのですが、ちょいとおさらいしてみますと……。

「忠別(川)」は、chiw-pet、即ち「波の川」とでも言った意味らしいのですが、それを chup-pet(「日の川」あるいは「月の川」)という風に意味を取り違え、「日の出の川」→「朝日の川」→「旭川」という地名ができてしまった、という話のようです。

勘違いが生まれた日

なるほど、確かに永田方正の「蝦夷語地名解」には、次のようにあります。

Chup pet チュ ペッ
東川「チュプカペツ」ニ同シ此川ノ水源ハ東ニアリテ日月ノ出ル処故ニ名ク明治二十三年旭川村ヲ置ク
(永田方正「蝦夷語地名解」国書刊行会より引用)※ 一部、旧字体を新字体に変更しています

ぬぉほぉぅぅ。ここに勘違いの萌芽が見て取れますねぇ。知里真志保先生が大胆に批判するわけです。

わかんない

ま、それはさておき。この話って、どことなく「カンガルー」の由来にも近い気がしますね、と書きそうになったのでした。

語源
西洋人がカンガルーを指して「あの動物は何と言うのか」と訊いたところ、現地人は(外国語では何を言いたいのか)「わからない」という意味で「カンガルー」と答え、これがこの動物の通称となったという有名な逸話は、中学の英語の教科書にも載ったことがあるが
(Wikipedia 日本語版「カンガルー」から引用)
そそ。この話は皆さんも聞かれたことありますよね。ただ、この文章には続きがありまして、

(──載ったことがあるが)俗説である。「カンガルー(kangaroo)」は、もともとカンガルー(跳ぶもの)を指した現地語 gangurru が変化したものであると考えられる。なお、オーストラリア周辺には多くの部族が住むため、すべての部族がカンガルーのことをこう呼ぶわけではない。
(Wikipedia 日本語版「カンガルー」から引用)
ま・じ・で・か!?

いやー、すっかり欺されちゃいましたよ。世の中そううまい話ばかりじゃ無い、ってことですね(意味不明)。

あれ? 新品は入手不可?

てなわけで、購入してから約半年近く、ようやく永田方正の「蝦夷語地名解」の埃が掃われる日が来ました(笑)(← 購入後、開くことすらしていなかったらしい)。いやー、こりゃまた面白そうな本ですね。知里真志保先生の「アイヌ語入門」と合わせて読むと楽しさ百倍です。面白いネタが見つかれば、またご紹介しますね。

昨年、新品で購入したのですが、今 amazon.co.jp を覗いてみると、新品は販売していないみたいですね(在庫限り?)。なんだかラッキーな気分になれました。

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2009年4月27日月曜日

札幌市白石区菊水の謎

県名ドン!

北海道の地名はアイヌ語に由来するものが多い……という話は昨日も書いていたような。そして、そんな中ひときわ異彩を放っているのが「鳥取」「岐阜」「徳島」「愛知」と言った「県名ドン!」な地名です。あ、これも昨日書きましたね。

埃をかぶる「地名解」←

まぁ、どんな地名がアイヌ語由来で、どんな地名がそうではないかというのは何となくわかるものです(何の説得力もない表現ですいません。ぶっちゃけ眠いもので)。アイヌ語由来の地名は、音の感じも独特なものがありますし、基本的に当て字全開のものが多いですから。「美利河」とか「仁宇布」みたいに、一音節一文字になっているものもありますしね。

樺太の先住民族にニヴフと呼ばれる人たちがいます。かつては「ギリヤーク」と呼ばれていた人たちですが、どことなく「仁宇布」(にうぷ)と音感が似ているのがちょっとだけ気になっていたりします。多分、関係無いんだと思いますが……。いや、調べりゃいいだけなんですけどね。

そういえば、「ギリヤーク」が「ニヴフ」になった理由がわからないですね。まぁ、「エスキモー」が「イヌイット」になったのと似たような所だと思いますが……。あ、もちろんイヌイットやニヴフの方々を貶める意図はこれっぽっちもありませんのでご容赦を。

しかも実は誤訳

で、ですね。北海道の地名には「札幌」や「稚内」のような、アイヌ語全開の地名もあると思えば、「旭川」のようにバリバリ日本語っぽい地名もあります。「旭川」の場合は日本語「っぽい」のがポイントで、実のところはアイヌ語由来の「忠別川」を和訳(しかも実は誤訳)したものに由来する地名なのだとか。いや、これも調べりゃいいだけなんですけどね(二回目)。

旭川の語源は諸説あるが、市の中心部に流れる忠別川をアイヌの人々が「波のある川・波立つ川」の意味でチウ・ペツと呼んでいたこと、これを誤ってチュッ・ペツ(日の川)と訳したことから「旭川」という呼ばれるようになったという説もある。
(Wikipedia 日本語版「旭川市」より引用)
これってまるで○○○の由来みたいですね、と書こうかと思ったのですが、ちょっと面白そうなネタなので明日に回します(笑)(←

勘のいい人なら一発でバレちゃうかも……。そうならないことを祈るばかりです。はげしかれとはいのらぬものを

札幌市白石区菊水の謎

ま、そゆことで(どゆこと?)、アイヌ語由来の地名にも、単純に音コピしたもの(札幌・稚内系)と、まがりなりにも意味コピを試みたもの(旭川系)がある、ということです。中にはハイブリッドタイプ(つまり、両方かかっている「うまい」命名)もあった筈ですが、ちょっと思い出せません。またネタを繰っておきます。

で、今日の本題というか……(ぇ)。北海道に上陸して、最初に違和感を感じた地名が「札幌市白石区菊水」でした。「菊水」と言えば楠木正成の家紋として有名なので、もしかしたら千早赤阪村に縁のある地名なのかな……? などと疑問を抱きつつはや 8 ヶ月が過ぎました。ATOK にも「過ぎたるは及ばざるがごとし」と予測変換される体たらく。明らかに誤用なのですが気にしていてはあきまへん。

おやすみなさい(←

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2009年4月15日水曜日

ちょっぴりクレバーかもしれない近鉄電車の踏切のおはなし

ちょっと前にどこかで聞いた話

ちょっと前にどこかで聞いた話なんですが(著しく信頼性に欠けるソースの例)、近鉄電車の踏切は、なかなかの優れものなのだそうです。

4 回目のカンで流局です

一般的な踏切の仕組みは、踏切の数百メートル手前にセンサーを設置して、そこに列車がさしかかると、警報機が「カン カン カン♪」と鳴り始める……という仕組みだと思います(まにあじゃないのでまちがってたらごめんなさい)。

止まった電車とにらめっこ

この仕組みの痛い点として、例えば駅のすぐ先の踏切において、電車はホームに止まっているだけなのに、警報機が鳴って遮断機が下りたまま……というものがあります。止まっていた電車が走りすぎるまで、ずーっと待たされた経験をお持ちの方は多いんじゃないでしょうか。

踏切を遮断するタイミングの最適化

踏切を遮断するタイミングについての最適解を考えてみましょう。踏切の遮断機の目的は、人や車が列車と接触することを避けること……の筈です。さらに言い換えると、仮に車が踏切内で立ち往生したとしても、列車が踏切の手前で停止できれば、最悪の事態は免れることができます。

そのために、発煙筒を常備したり、緊急停止ボタンを踏切に備え付けたりしていますね。

言うまでもありませんが、新幹線には踏切が存在しません(「山形新幹線」や「秋田新幹線」と言った「なんちゃって新幹線」は別で)。理由としては、300 km/h で疾走する列車から運転手が視認できる範囲内に異常を見いだしたとしても、安全に停止することが出来ないから、というのもあるかと思います。

まぁ、基本的に踏切を設置することは軌道への侵入リスクが高まるので、たとえ停止できたとしても危険なのには変わりないのですけどね。

ベストアンサー「何かあった時に列車を止められる距離」

さて、「何かあったときに列車を止められること」を踏まえて、では一体何メートル手前にセンサーを設置するのがベストか、という話になります。

……答は簡単です。「何かあった時に列車を止められる距離」で警報機を鳴らせば良い、ということになります。それでは、「何かあった時に列車を止められる距離」はどうやって求めるのか……。これは、列車の速度に依存することになりますね。30 km/h で走る電車だと、かなり短距離を空走するだけで止まることができますし、120 km/h であれば、下手をすれば空走距離は 16 倍くらいになるかも知れません。

ゼロの発見

ということは……。列車がすでに停止しているのであれば、どれだけ踏切の近くに止まっているとしても警報機を鳴らす必要は無い、ということになります(既に停車しているんですから、空走距離が 0 m になるのは当たり前ですよね)。

ちょっぴりクレバーな近鉄電車の踏切

どうやら、近鉄電車の踏切は、センサーに車速を検知する機能があるらしく……。踏切の隣に電車が止まっていても、発車する少し前までは警報機は鳴りません。これ、実はとっても助かってます(毎日、駅の横の踏切を歩いて横断しているもので)。

で、見ているとわかるのですが、電車が発車する少し前になると、電車は 1 mm も動いていないのも関わらず、警報機が鳴り始めます。これ、どういう仕組みで警報機を鳴らしているのか、実はちょっぴり気になっていたりします。純粋に車速のみで判断するのであれば、このロジックは破綻しますからね(少なくとも 1 mm は動かないと、警報機は鳴らないはず)。

ま、どこかにスイッチがあって、駅員さんか運転士さんが押してるんでしょうけど、それはそれで押し忘れとかあったら怖いなぁ、なんてことも思いました、まる。あれ、作文?

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2009年4月12日日曜日

Bojan のホテル探訪~「グランドプリンスホテル新高輪」編(つづき)

続きです。いや、一昨日あたりからちょいと体調が良くないから……というわけ……なんですけどね。手抜きですいません。

Bojan のホテル探訪~「グランドプリンスホテル新高輪」編(つづき)

想像を上回る「お姫様系」ぶりに驚かされたわけですが、部屋の隅にはこんな鏡台が……。
ベッドについては……、まぁ、これは比較的ふつーですね。
気になったのがコレ。時計兼各種スイッチのコレなんですが……、随分とクラシックな感じがします。
電話の横にはさりげなくモデムが乗っかっていますが、
コレです。ちなみにこいつ、記憶があやふやですが有料だったような気がします。外国人向けのサービスですねぇ。

バス・トイレまわり

水回りを見てみましょうか。
めちゃくちゃ広いわけではありませんが、ちょっぴり広めのバス・トイレです。

備え付けの備品はこちら。
この辺の充実度をついチェックしてしまいますね……。統一感の取れたデザインできちんと整頓されているのは好感度高いです。

Rating

品川・高輪エリアにおけるプリンスホテルグループのフラッグシップ……だと期待していたのですが、ちょっと期待しすぎだったのかも知れません(価格もそんなに高いわけじゃなかったし)。なんてゆーのか、30 代に突入しても演技派としての存在感を得られずにいる元アイドルのような印象が……(← どんな喩えだ

もちろん、品川プリンスよりは遙かに落ち着けるんですが…… 2 つ星か、2 つ星半か、悩むところです。むー、ちょっと辛すぎるかもしれませんが ★★・(2 つ星)で!

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2009年4月11日土曜日

Bojan のホテル探訪~「グランドプリンスホテル新高輪」編

その日(いつ?)は所用があって、芝公園駅の高速道路ガード下あたりからタクシーを拾いました。素直に日比谷通りを南下して第一京浜経由で行くのかな? と思っていると、赤羽橋から桜田通りに入ってしまって……。

内心「これって目黒に行くんじゃ?」と不安に思っていると、いつの間にかグランドプリンスホテル新高輪に到着していました。地図で見てみると、都営浅草線の高輪台駅(西馬込行きしか走らない、比較的マイナーな駅)からほど近いことがわかったわけですが、タクシーに乗車中は「しまった、ぼられたか?」と焦ったのはヒミツです。

ちなみに、確か \1,580- くらいだったと記憶しているのですが、二千円を支払うとお釣りが \580 戻ってきました。あわてて運転手さんにお釣りをもどすと、運転手さんは何を思ったか「いやいや、いいですよ」と。どうやらチップと間違えた模様(笑)。

私が「釣り銭、間違えてますよ」と指摘すると、ようやく事態を察したのか「あっ」と。ほんの少しだけ良いことをした気分になれました(笑)。

雄大な王子様のホテル新高輪

さて、グランドプリンスホテル新高輪です。いやいや、何と言っても名前が凄いじゃないですか。グランドなプリンスですよ? その上「新高輪」ですからね。泊まる方が気後れする……ようなことは全くありませんけど。(←

こちらのホテルは、Reception と Cashier がびみょうに別れているタイプ。一応「外人さん」も迷わないようになっているみたいですが、あからさまに別々になっているわけでもないので日本人でも安心です。まぁ、ふつーにチェックインを済ませます。

さすがに番号札は無かったけれど

「荷物をお運びしますか?」と聞かれたので、「ええ、お願いします」と答えると、「只今係のものが混み合っておりますので、あちらで少々お待ちください」と。「係のものが混み合う」という表現が日本語として正しいかどうかびみょうに思ったものですが、(確か)そう言われたのですから仕方がありません。

腰掛けて待っていると、ものの 1 分もしないうちに「○○様~」と声がかかりました。タモさん風に言うと「役所の待合みたい」ってヤツですね。

なんと門扉がありました

ベルボーイのお兄さんは、「売店はこちらでございます」と簡単に設備の案内をしつつ、部屋まで荷物を運んでくれました。そして案内された部屋がこちら。
手ぶれ防止機能の仕組みをイマイチわかってないのか、ブレブレの写真で申し訳ないです。それにしても……おそろしくファンシーな入り口です(笑)。

もちろん、ファンシーなのはこの部屋だけではなくて、みんなこんな感じ。
ちょっとびっくりしちゃいますね……。

お部屋はと言うと

お部屋はこんな感じです。
部屋はいつものツインですが、入り口のファンシーさを裏切らないだけの内装になっています。

ま、とゆーわけで、明日に続きます。

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2009年4月10日金曜日

クラスター分析による女子高生優越の検証

男子高校生の受取はコンビニが便利です

えーと、昨日は、「街中で見かける高校生は、なぜ圧倒的に女子が多いのか」という壮大且つ深遠なる永遠のテーマ(←)に対して科学的アプローチを試みました。結論としては、「男子高校生はコンビニ受取が便利」となったわけですが……(←←←

街中で見かけるのは女子高生ばかりである件について(第 2 夜)

少しだけ反省したので、少しだけマジメにやりなおします(またやるのか)。

先日、これは私自身の話になるのですが、車を運転していて、ふと女子高生が自転車の荷台に腰掛けて移動しているのを見かけました。まぁ、この文章から正確に光景を読み取れる人はいないと思います。一人で荷台に横向けに腰掛けながら移動できる筈がないですからね。

実際に自転車を漕いでいたのは男子高校生でした。私も、もちろんすぐに気づいたわけですが、最初に識別したのが女子で、数秒後に男子の存在を認識したのは確かです。果たしてこれが意味することは何か。

仮説 1

まず、Bojan も知り合いのことを言えた義理ではなく、日頃、女子高生ばかり見る癖がついている、という仮説が考えられます。これについては棄却できないような気もしないでもないですが、とりあえず今日の所は「サンプリング不足」ということで一旦は棄却しておきます(←←←

仮説 2

こうなると、素直に考えるしかありません。男子高校生よりも女子高生のほうが人目を引きつけるものがある、という仮説です。特に昨今はスカートの長……うっ、うわぉぇqあwせdrftgyふじこlp;

ただ、実際のところ、これは結構いいセンを突いているような気がします。というのも、「紺色のブレザーにネクタイとズボン」の男子高校生は、稀にサラリーマンのおっちゃんと見間違えることがあります。「ほんまかいな」と思われるかも知れませんが、今日ホントに見間違えたので、これは間違いないでしょう。

一方、「紺色のブレザーに不必要なまでに短いスカート」という女子高生ファッションを、OL のねーちゃんと間違える確率は比較的、いや、かなり低いです。即ち、随分と遠目からでも「じょしこーせーだ」と識別できることとなります。

クラスター分析による女子高生優越の検証

多変量解析」の手法のひとつとして、「クラスター分析」というものがあります。

クラスター分析と言うものは、端的に言えば、色んなものの中から「似たもの」同士をまとめていって、「バラバラなもの」をざっくりと分類するために使用されます。クラスター分析がどんなものか知りたい!という人向けには、「hirax.net::モーニング娘。でクラスタ分析::」という秀逸なページがあります。クラスター分析と言えばデンドログラム(樹形図)。どことなくトーナメント図に似ているアレです。

南山大学の Web サイトに、クラスター分析について簡潔に解説しつつ、デンドログラムのサンプルが置いてある素敵なページを見つけました。http://www.ms.nanzan-u.ac.jp/dep/cluster.html

この「クラスター分析」を、例えば「女子高生」「男子高校生」「女子大生」「サラリーマン」「年金生活者」「主婦」「幼稚園児」「デーモン小暮閣下」といった社会的属性とその外見を変数として行ってみたらどうなるか。「デーモン小暮閣下」がかなり最後のほうまで残りそうなのは容易に想像がつきますが、「女子高生」もそれに負けず劣らずかなりいいセンまで残りそうな気がするのです。

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2009年4月9日木曜日

街中で見かけるのは女子高生ばかりである件について

先日、知り合い(男性)からナイスな問いかけを受けました。

「街中で見かける高校生って、圧倒的に女子が多くないですか?」

その時、私は、後頭部を豆腐のカドでぶつけられたような衝撃を受けたのでした(←

いや、改めて考えてみたんですが、確かに言われてみれば「学ラン」や「ブレザー」姿の男子高校生よりも、「スカート」姿の女子高生を見かける回数のほうが多いような気がします。これはどうしてでしょうか。

仮説その 1

まず、「街中で女子高生ばかり見かけるのは、ホントに女子高生の方が多いから」という仮説を考えてみました。これは果たしてどうでしょうか。

一般的に、新生児の男女比は 105:100 くらいだと言われます。[要出典] また、0 歳~15 歳人口において、男児の死亡率が女児の死亡率を著しく上回るといった状況も考えにくいです。従って、15 歳~18 歳人口において、男女比が明らかな偏りを見せているという可能性は棄却できそうです。

では、次に、高校への進学率について男女の間で差が見られるかが論点となります。俗に「工業高校は女子が少ない」などと言われますが、これはむしろ男子の進学率を押し上げる見解です。高等専門学校(高専)を「高校」の枠から外してしまえば、男子の「高校への」進学率は見かけ上は低下することになりますが、「高校生」と「高専生」を外見から区別することは決して容易ではないので、「高専」も「高校」の枠に含めてしまって問題ないでしょう。つまり、ここでも男子の進学率を低下させる因子の存在は見あたりません。

ここまで確認した限りでは、「ホントに女子高生の方が多いから」という仮説を裏付けるものは何ひとつ見つかりません。この仮説は誤りであると言ってしまって良いのかもしれません。

仮説その 2(即時棄却)

では、次です。街中で女子高生ばかりを見かけるのは何故か。それは、街中で見かける女子高生の 40 % がフルキャスト……うゎqあwせdrftgyふじこlp

……コホン。続けましょう。

仮説その 3

では、「街中で男子高校生を見ることは少なく、女子高生ばかりを見かける」という仮説?について、統計的な裏付けを探してみましょう。

Google さんに聞いてみました。まずは「女子高生」の数から。
約 8,190,000 件と出ました。これが多いか少ないかはさておき……。

続いて「男子高校生」の数を見てみましょう。
約 516,000 件と出ました。この差は圧倒的ですね。斯くして「街中で女子高生ばかり見かける」理由が証明されました(←

それよりも気になるのがスポンサーリンクです。
「好きな時に受け取れるコンビニ受取も」って……ちょっとねぇ(笑)。

Q. E. D. (Quod Erat Demonstrandum)

あ、「街中では女子高生ばかり見かける」という鋭い洞察力を見せた私の知り合い(男性)ですが、その疑問を私に口にした直後に、次のように語っていました。

「これってボクが女子高生ばかり見てるからでしょうかねぇ?」

たぶんそれが正解かも(←←←

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2009年4月8日水曜日

想定される質問とその回答

ということで……。中途半端な長文が二日ほど続いてしまったので、ここでちょいとまとめておきます。それでは、「想定される質問とその回答」です。

結論が良くわからない

すいません(汗)。えーっと、申し訳ないですが、2 点に分けて回答します。

まず、「大空襲の夜に地下鉄は走ったのか」という問いについては、「Yes」という結論です。ただ、「乗務員の機転により地下鉄が運行されたのか」という問いに関しては「No」だと考えています。

では、その電車は何時に走ったのか

断定はできませんが、本来非営業の「職員用電車」が運行を予定していた時刻前後と推定しています。

ただ、乗務員が、大空襲による被害が地下の軌道に及んでいる可能性があると考え、その確認を行うために、通常よりも早めに運行した可能性も十分考慮に値すると思われます。

具体的には、心斎橋駅を 4 時前後に発車した可能性が考えられるかと思います。

「3 時半ごろに発車したと思う」という証言があったが

極限状態にあっては体感時間に多少のずれが生じても不思議は無いものと考えます。1 時間の避難行だと思っていたものが実際には 1 時間半だった、といった可能性は十分あり得るかと思います。

その仮定だと梅田駅で始発を待つ時間が短くなるが

阪急梅田駅周辺は比較的空襲の被害が少なかったと言われます。ですから、避難してきた人たちも一息つくことができたのではないかと想像しました。また、少し落ち着きを取り戻した状態で一ヶ所に留まって始発を待つという行為は、実際以上に長く感じられるものです。

あるいは、未明に大空襲があった当日ですから、阪急電車の始発が時刻表通りに出発しなかった可能性も十分考えられます。

仁川駅に到着した時点で夜が明けた、という証言については

2009 年の今、梅田から仁川までは約 20 分で辿り着ける(西宮北口での乗り換え時分を無視した場合)とされています。太平洋戦争末期での悲惨な状況下であったとしても、梅田を 5:30 に出発して 6:20 頃に仁川に辿り着ける可能性は十分あるものと考えます。

なお、神戸における 2009/3/14 の日の出時刻は 6:12 とのことです。

乗務員が名乗り出なかった理由は?

夜中に臨時電車を仕立て上げた」という仮定が誤りだったから、と推測します。

新発見に値する証拠はありますか?

残念ながらありません。ですので、全ては推論に過ぎません。

とは言え、自分では矛盾点の少ない推論だと思っていますし、不自然なまでに整合性が取れた推論でもないと思っています(整合性の取れた推論は、しばしばとんでもない間違いであることがあります)。もっとも、北行の「職員用電車」が運転されていた、という話が誤りであれば、全てが水泡に帰す可能性が高かったりもしますが……。

いつか、このネタでノベライズしてみたいものです(←

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2009年4月7日火曜日

幻の電車の正体

その時、電車が走った

大阪大空襲の夜に、地下鉄は走ったのか……の続きです。

大空襲の夜、地下鉄で避難した!」という経験を語る人は少なくなく、区間について尋ねてみると、誰もが「心斎橋から梅田まで」と口にします。これだけ肯定的な証言……というか経験談を並べられてしまうと、いきおい「地下鉄は走った」という結論に傾かざるを得ません。

では、「その時」はいつだったのか

では、仮に「大阪大空襲の夜に地下鉄が走った」のだとして、それは何時頃の出来事だったのでしょうか。フジテレビで放送された番組では、次のような証言が取り上げられていました(要約)。

地下鉄に乗ったのは三時半頃だと思う。梅田に避難した後は、阪急電車で仁川まで避難したのだが、仁川に着いた頃にちょうど夜が明けた。梅田で阪急電車が動き出すまでは、一時間以上は待ったと思う。

仁川は阪急今津線の駅で、神戸線の西宮北口から宝塚方面にちょいと行ったところです。戦時中で敗色濃厚だった昭和 20 年であれば、梅田から仁川までは小一時間かかったと考えられます。空襲があったのは 3/14 の未明ですから、夜明けは 6 時をちょっと過ぎたあたりでしょう。

また、当時の阪急電車の始発は 5 時頃だったとされます。従って、「梅田で小一時間待たされた」という証言が正しいと仮定すると、「三時半ごろに地下鉄に乗って避難した」という証言にも矛盾は生じません。

心斎橋から梅田までですが、地下鉄開業当時の所要時間は 5 分だったそうです。今は逆にもう少しかかるような気がしますが……(電車の間隔が結構短いため、各駅での停車時間が意外と長い)。

佐藤栄作は大阪大空襲を予期していた

もう一つ、「地下鉄は走った」説の補強材料として、「大阪大空襲は予期されていた」という事実があります。これは「ルーズベルトは真珠湾攻撃を知っていた」という類の陰謀論ではなく、3/10 未明に未曾有の規模での東京大空襲があったことから「次は大阪だろう」という風に類推しただけのこと……と考えるのが自然です。

当時、鉄道省の大阪鉄道局長を務めていたのが、かの佐藤栄作だったそうなのですが、佐藤は来るべき大空襲に備えて、緊急の軍用列車を運行する手筈を整えておくよう指示をしていた……とされます。もっとも、佐藤が管轄していたのは所謂「省線」あるいは「国鉄」であって、「地下鉄」に対してどの程度の影響力を持っていたかは定かではありませんが……。

ただ、「国家総動員法」なる法律のもとに、有力私鉄の大型合併や国有化が頻繁に行われていた時期でもあり、今では想像も出来ないほど「国鉄」と「私鉄」の結びつきは強かった……のだと思われます。

本題に戻りますが、こういった「大空襲への備え」は、実は地下鉄でもあったのだそうです。具体的には、平常時は夜間に電力の供給を止めていたものを、緊急時への備えとして、空襲の当日(3/14 未明)は終夜電力の供給を止めなかったのだとか。つまり、平常時と比べて電車の「スクランブル発進」は容易だった、ということになります。

やはり電車は走らなかった

さぁ、このように「乗客側の証言」と「傍証」が出そろいました。しかしながら、肝心の「電車を動かした」という証言だけが出てきません。これは一体何を意味するのでしょうか。

真っ先に思いつくのが、当事者が既に物故してしまったという可能性です。地下鉄で避難した人は数百人とも言われますが、肝心の「電車を動かした」当事者は数人だと考えられます。確率論的に見ても分が悪いです。

ただ、もう一つの可能性として、「やはり電車は走らなかった」という考え方も、私は捨てきることができません。いや、実際には地下鉄に電車は走りました。それは否定しようがないと考えています。「電車が走らなかった」というのは、「臨時電車は走らなかった」という意味です。

当事者の証言の中で、「毎朝(未明)、(天王寺、あるいは難波あたりから)各駅に駅員を配置するための(職員用の)電車が走っていた」というものがありました。数百人の命を救った電車は、実はこれだったのではないか、と考えています。

幻の電車の正体

職員を配置するための電車(もしかしたら、始発前の軌道チェックを兼ねていたのかも知れません)ですから、当然のことながら、朝の始発よりは少し早いタイミングで走ることになります。阪急電車の始発が朝の 5 時頃だったと言いますから、地下鉄もおそらく似たような時間に始発電車が走っていたと考えてよいでしょう。それに間に合わせるための電車であれば、朝の 4 時過ぎに走っていたと考えても不思議はありません。

日本の鉄道は「定時運行」を誇りますが、果たして始発前の職員用電車まで秒刻みの正確さを誇ったかと言うと、正直、何ともわかりません。また、未曾有の大空襲によりミナミが焼け野原となったことを考えると、少しでも早く電車をミナミからキタに移動させようとするのも、市民の財産である地下鉄車両を守る意味では正しい判断です。もちろん、空襲で地下鉄の軌道に歪みが生じていないかを確かめる必要もあったでしょう。

いずれにせよ、「いつもの職員用電車」が、いつもよりちょっぴり早いタイミングで走ったと考えても不思議はない……と思うのです。「いつもの職員用電車」は、心斎橋駅のホームに大量の市民が避難しているのを見て、何が起こっているかを瞬時にして悟ってドアを開けた……だけのこと……ではなかったかと考えたのですが、いかがでしょうか。

想定される質問とその回答もどうぞ

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2009年4月6日月曜日

大阪大空襲の夜、地下鉄は走ったのか?

一級品のミステリィ

久しぶりに、一級品のミステリィに出会ったような気がします。

プロットは実に簡単です。太平洋戦争の末期、大阪大空襲で焼け出された人々が、地下鉄(御堂筋線)の電車に乗ってミナミ(心斎橋)からキタ(梅田)に避難したという、それだけの話です。では、果たしてこの話のどこがミステリィなのか。

実は、「大阪大空襲の夜、地下鉄に乗って避難した」という経験を持つ人が多数いるにも関わらず、「地下鉄を動かして避難民をミナミからキタに輸送した」という人が誰一人としていないというのです。つまり、空襲で焼け出された人を梅田に運んだ電車は「幽霊電車」だった、ということになってしまいます。

3/13~14 の大阪大空襲

Wikipedia の「大阪大空襲」の項には、次のような記述があります。

地下鉄による避難

3 月 13 日、14 日の大空襲は深夜に行われたため、地下鉄の駅の入り口は鉄扉で堅く閉ざされていた。しかし、難波、心斎橋は猛火に包まれており、既に避難の術がなかった。そこで、乗務員の機転により、地下鉄の駅を開け、急遽梅田方面(梅田方面は被害を受けていなかった)へ電車を運行し、人々を避難させた。これによって、300 - 400人の人々の命が救われたといわれている。当時、地下鉄の職員はまだ徴兵されていない勤労学生が多く、女性乗務員も少なくなかったという。若者らしい、杓子定規に囚われない行動が多くの人命を救ったのだった。

この事実は、大阪市の公式な文書には記載されず、戦後長らくその詳細が不明であったが、1980 年代後半になって新聞の投書欄に話が出たのをきっかけに証言者が現れ、日の目を見ることになった。
(Wikipedia 日本語版「大阪大空襲」より引用)
この記述のネタ元ですが、もしかしたらフジテレビが製作した「NONFIX: 千の風プロジェクト 大阪大空襲の夜 地下鉄は走ったのか」かも知れません。まぁ、かくいうこの記事のネタ元でもあるので、あまり大層なことは言えないわけですが。

乗務員の機転による「幻の電車」は事実か

さて、Wikipedia の記事でも、あるいはリンク先のフジテレビのページでも「乗務員の機転により──電車を運行し」「多くの人を助けた少年達がいた」と、勤労学生たちの機転で多くの人が救われた──というストーリィになっていますが、これは果たして事実なのでしょうか。

もし、これが事実なのだとしたら、独断で地下鉄に電車を走らせたことになります。これはおそらく何らかの内規違反になるでしょうから、それを忌み嫌って誰も名乗りでない……という推測もできなくはないですが、何かおかしい気がします。

では、なぜ誰も名乗りでないのか

「地下鉄のおかげで助かった」と戦後数十年経っても感謝の念を忘れない人がいる一方、当時の地下鉄乗務員は口を揃えて「(大空襲の夜も)何も変わったことはしていない」「電車を勝手に運行できる筈がない」と言います。

そして、もし、一部の乗務員の独断で列車を走らせたのだとしても、戦後五十年も経てば当時の勤労学生も定年を迎えている筈です。いまさら内規違反を云々することは無いでしょうし、仮にあったとしても、世間がそれを許さないでしょう。

つまり、独断で地下鉄を走らせた人たちがいたのだとしても、誰一人として名乗り出ない、というのはあまりに不自然だと思うのです。

食い違う証言、符合を見せる証言

戦後六十年を過ぎた今、「地下鉄に乗って避難した」経験者の体験談も、ところどころに食い違いを見せていると言います。「地下鉄の入り口は閉まっていた」と回想する人もいれば、「入り口は開いていた」と証言する人もいます。また、「ホームにはそれほど人はいなかった」と言う人もいれば、「ホームはラッシュアワーのようだった」と語る人もいます。ただ、「心斎橋から梅田まで地下鉄で避難した」という証言だけはぶれることが無いといいます。

……うん、結構なボリュームになりましたね(引用もあるけれど)。あんまり長いと読む方も疲れると思うので、続きは明日にしましょうか。→ つづき

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2009年4月3日金曜日

神武天皇祭と橿考研付属博物館

言葉の綾ではなく

今日は、かねてから予定していた通り、仕事を休んで病院に行ってきました。もっとも症状は小康状態で、どうってこと無い状態なので、お医者さんとは二、三言葉を交わしただけ、診察はものの五分で終わりました(言葉の綾ではなく、ホントに 5 分)。

ということで、次回の診察は 8/7(金) に予約されました(笑)。どんだけスパン長いんだ……。

で、診察はものの五分で終わったのですが(← しつこい)、そのまま家に帰るのもアレかなぁと思って、少しぶらぶらと散策してみることにしました。いや、車を運転してですけどね。ここは田舎、近所のコンビニに車で行くのも当たり前の世界です(笑)。

神武天皇祭?

それでですね……。ふらふらーっと橿原神宮に向けて車を転がしていたのですが、いつもはひっそりとしている(隣にラブホテル街があるにも関わらず)橿原神宮の近辺に、今日はなぜかやたら人がいます。なんと歩道には露店まで出ています。2/11 の紀元節……じゃないや、建国記念の日には、この近辺もえらい騒ぎになるんですが(全国から街宣車が集結します(笑))、そこまでは行かないにしても結構な賑わいです。

どうやら今日は「神武天皇祭」だったのだとか。地元民でありながら、そんな祭りがあることすら知りませんでした(あははっ)。

神武天皇祭じんむてんのうさい)とは、神武天皇を祀る皇室祭礼。戦前の大祭日の一つ。現在では新暦 4 月 3 日に行なわれる。初代天皇である神武天皇を記念したもので、4 月 3 日は、崩御の日とされる太歳己卯(紀元前 586 年)3 月 11 日 (旧暦)をグレゴリオ暦に換算したものである。宮中の皇霊殿と神武天皇陵で儀式が行われる。
(Wikipedia 日本語版「神武天皇祭」より引用)
てなわけで、いつもならばあり得ないほど……と行かないのが田舎の良い所なんですが、いつもより多い目(染之助・染太郎みたいですが)の車に辟易したわたくしは、さっさと脇道に逸れて、家に帰ろうと心に決めました。

右手に見えるのが橿考研、そして左手に見えるのが……

……ふと右手に見えてきたのが「かしこうけん」こと「橿原考古学研究所」。いや、ここに橿考研があることは知っていましたが、ここはあくまで「研究所」なので、素人がノコノコ遊びに行けるような所ではありません。

しかぁし。迂闊にも今まで認識が漏れていたのですが、すぐ近所に「橿原考古学研究所附属博物館」なんて所があってですね……。これなら一見さんでも OK でしょう、ということで行ってきました!

騒々しいご婦人は苦手です

常設展示は「大和の考古学」で、ちなみにオトナは 400 円の入場料を取られるのですが(笑)、いやいやこれがどうして、かなりお腹いっぱいになります。誰もいないことを期待して平日のお昼前に行ったのですが、延べ 5 人ほどの来訪者がいました。やたら騒々しかったご婦人二人組を除くと静かなもので、スニーカーの足音すら気になるくらいでした。

常設展示室に入ったところには、年配のおじさん達が屯して世間話に興じていたのですが、どうやら展示案内のボランティア?の方だった模様。騒々しいご婦人二人組をナビゲーションしていました。休日などで人出があるときは、1 日 2 回ほど、決められた時間に展示案内をしてくれるようです。

で、常設展示に話を戻しますが……。「国宝」「重文」級の遺物がそこかしこにざっくざくで、改めて「都会だったんだなぁ~、昔は」との思いを新たにしました(笑)。まぁ、「これ!」というキラー展示があるわけじゃ無い(と思う)ですが、たった 400 円で最低 1 時間は楽しめるので、これはお買い得ですよ。

そして勾玉ストラップ

しかも、順路の最後には「ミュージアムショップ」と「情報コーナー」なんかがあったりして。「情報コーナー」には「日本書紀」だったり井上光貞の著作だったりが無造作に置いてありますし(自由に閲覧できる模様)、「ミュージアムショップ」には古代関連の一般書籍から橿考研などの紀要が販売されていたり。そうかと思うと「勾玉ストラップ」といった一般大衆向け(?)グッズも取りそろえていたり。
はい。皆様のご期待通り、記念に買い求めてきましたです。:)

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