2009年1月15日木曜日

ライフ・ウィズ・礼記(←

岐阜県は徳山ダム周辺の国道 417 号線のトンネルに掲げられた「蘊蓄のあるお言葉」を訪ねてシリーズはさらに続きます(長いぞ)。

ライフ・ウィズ・礼記(←

「境の尾一里岩隧道」(南口)に掲出された「以徳報徳」という言葉、これは「礼記」に由来するそうなのですが、じゃあ「礼記」って何よ、と。

礼記らいき)とは、周から漢にかけて儒学者がまとめた礼に関する書物を、戴聖が編纂したものである。全 49 篇。これは唐代以降、五経の 1 つとして尊重された。現在通行している『礼記』は後漢の鄭玄注、唐の孔穎達疏の『礼記正義』(『十三経注疏』の一つ)や陳諸黷フ注釈した『礼記集説』など、多数存在する。
(Wikipedia 日本語版「礼記」より引用)
「らいき」って呉音ですよね。違うかな。ま、どーでもいいと言えばそれまでなのですが。

上限、低減?

鄭玄は、名前は覚えているのですが、何をした人だったか……。

鄭 玄(てい げん, 127 年(永建 2 年) - 200 年(建安 5 年))は、中国・後漢末期の学者である。中国人名は漢音で読まれることが多いが、鄭玄に限って慣習的に呉音で「じょう げん」と呼ばれることが多い。青州北海郡高密県(山東省高密市)の出身、字は康成。
(Wikipedia 日本語版「鄭玄」より引用)
あ。「じょうげん」も呉音なんですね。でも、確かに「ていげん」よりも「じょうげん」のほうが通りがよいです(私の中では)。で、何した人でしたっけ? 竹林の七賢でも無いですし、建安の七子でも無いですし。

略要

鄭玄の八世前には哀帝の時に尚書僕射まで昇進した鄭崇がいる。ただし鄭玄は 邑里の小役人に過ぎなかったが、貧窮をものともせず学に励み、22 歳で太学へ進んだ。さらに馬融らの当時一流の儒学者に師事した。勉学にいそしむこと 10 数年で郷里に戻り、学生を指導した。

44 歳の時に党錮の禁に連座し、以後は仕官することなく、家中で著述に専念することとなった。晩年には朝廷に徴されて、大司農となった。ただ、それは、鄭玄の本意ではなかったため、職を離れて生涯を研鑚に捧げた。門人の孫乾を劉備に仕官させた事でも知られている。
(Wikipedia 日本語版「鄭玄」より引用)
はっはぁー、なるほど。「三国志(演義)」の最初のアタマのしょっぱなのトップのほうでちらっと出てきたか名前が出たかのヒトですね

ひとやすみ

では、ちょっと徳山ダムを見ながら一休み……ということで。

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