最後のファンタジー
この際だからカミングアウトしてしまいましょう。古田武彦は凄いと思います。古田武彦という人は、その著書「邪馬台国はなかった」で知られる人で、日本における「多元的古代」というユニークな考え方を広く世に広め、その独創的な考え方は「古田史学」と呼ばれたものです。
ただ、より正確を期すためには「古田史学」ではなく「古田空想史学」、あるいは「古田ファンタジー史学」としたほうが良い、とも思います。略して「FF 史学」なんてのも良いかもしれません。「ダルマスカ」は「ダニマルカ」(イタリア語で「デンマーク」の意)から語感をパクっていると思います(だからどうした
大学教授とは、誰も読まない本を書く人たちと見つけたり
相変わらず妙な前置きですが、本題に移ります。古田武彦著の「真実の東北王朝」を読みました! いやー、全編で古田節が炸裂!していて、もう最高です。ブラボーですね。「大学教授」の普遍的な特徴として、「『誰も読まない本を書く』という習性がある」と看破した人がいるとか……。これは恐ろしく卓見です。ごく一部の例外を除いて、大学教授の著した本というものは、おそろしく詰まらないです。
ところが、古田武彦の本は……実に面白いのです。「真実の東北王朝」なんて、まさに「読み出したら止まらない」状態になっちゃいました。朝の 4 時頃まで読み耽る始末……。
読後の清涼感は、まやかしの清涼感
「誰も読まない大学教授の本」との最大の違いは、「誰も読まない本」は客観的な論述に終始しているのと比べ、「古田武彦の本」は、すべて「わたし」の主観で綴られている、という点です。また、文中の「わたし」には全能感すら漂い、神々しさすら感じられるのが最大の特徴と言えましょう。「わたし」は、「旧来の固定観念に縛られた『定説』という名の巨人ゴリアテ」に挑むダビデであり、次々と「画期的な新発見」をしては定説を書き換える、というのが定番になっています。氏の文章は、学術論文では絶対お目に掛かれない「情緒豊かな文章」で(そもそも論文に情緒は不要ですが)、自信たっぷりに読み手に語りかけて来るのです。
で、「真実の東北王朝」という本ですが……。最初に出てくるのが「多賀城碑」、そして次に出てくるのが「つぼのいしぶみ」。真打ちとして出てきたのが「東日流外三郡誌」という……。いずれも、出版当時では真贋の定まらない「キワモノ」ばかりなわけでして。これらを題材に、熱っぽい「古田節」が炸裂するわけです。
古田空想史学の終焉
中でも、「東日流外三郡誌」(またの名を「和田家文書」)は、当時から後世の偽作であるとの評が絶えない「疑惑の古書」だったわけですが、その疑わしき点をピックアップしてはフォローを入れてしまうその姿勢は、涙無くしては語れません(笑)。なんせ 1859 年に出版された、チャールズ・ダーウィンの「種の起源」についての講釈を、「ダウイン一世の説」として 1700 年代に長崎で聞いたことになっていたり、挙げ句の果てには江戸時代の古文書に、「ビッグバン」についての記載があったり、ですからね(笑)。ビッグバンという考え方が成立したのは 20 世紀ですから。
それを、「ダウイン一世」は「チャールズではなく、その祖父のことだ」としたり、「ビッグ・バン」についても、「学説として成立したのは 20 世紀だが、それ以前にもコンセプトモデルとして捉えられていた(かもしれない)」といった、あまりに不自然なフォローを連発する姿は、「古田(空想)史学も終わったな」と思わせるに十分でした。実際、稀代の偽書である「東日流外三郡誌」にコミットしたことが、古田の学者人生にとどめを刺した、と見る向きも多く、また、実際その通りになったわけで。
やっぱり、「ファンタジー」は「ファンタジー」として世に問うのが全うだよね、と思うわけです(まる)。あれ、作文?
(文中、敬称略)
「疑似科学」や「カルト」の入門書としては、古田氏の本はオススメ!です。ただ、「私は何でも素直に信じてしまうの」といった人には、とてもお勧めできません。「科学とは、すべてを疑うことと見つけたり」という境地に達した方にのみ、お勧めします。大学でマトモに研究をしたことのある人なら、きっと誰でも大丈夫だと思います。
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