「建武中興発祥之地」
さー、いつになく……いや、いつも通りに遅々として話が進まない当 Blog ですが、ようやく「黒木御所阯」の入り口?にやってきました。「黒木御所阯」の石碑の隣には、「建武中興発祥之地」と書かれた石碑が。「建武中興」は、学校では「建武の新政」という名前で習った記憶があります。鎌倉幕府が滅びた後に、後醍醐天皇によって行われた「親政」のことですね。ただ、「武家」から「公家」に各種権益が奪われていくのを、武家の面々が指をくわえてみている訳もなく、久しぶりの「天皇親政」は武家の離反によりほどなく瓦解してしまいます。南北朝時代の到来です(めちゃくちゃ略したな)。
で、何故に黒木御所が「建武中興発祥之地」なのかと言えば、黒木御所に流された後醍醐天皇が、後に隠岐から脱出して倒幕(鎌倉幕府の打倒)に成功して「建武の新政」を始めた、という流れになっているからなのでしょうが……。いやー、でも隠岐に流されたことから「建武の新政」が生まれたというのは、ちょっと牽強付会に過ぎるのではないかと……(笑)。
革命の聖地
この「建武中興発祥之地」という理屈?を見て、何か似たようなものがあったよなぁ……と思っていたのですが、思い出しました。「延安」ですね。中国紅軍が長征を行った際、終着地として到達したのが延安であったことから中国革命の聖地とされる。
(Wikipedia 日本語版「延安市」より引用)
「長征」とはですね……長征(ちょうせい)は、中華民国の国民政府が中国共産党に対する攻勢を強めたのに対し、1934年 - 1936年にかけて行われた、中国共産党による脱出と組織の再編。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。
(Wikipedia 日本語版「長征」より引用)
というわけでして……。当時、毛沢東ら「共産党のゆかいな仲間たち」は蒋介石率いる国民政府にコテンパンにのされて、「長征」という名のドサ……いや、流浪の旅?を続ける羽目になっていたのですが、その終点が「延安」だったわけです。そして蒋介石には間の悪いことに、日中戦争が泥沼化してしまったために、国民政府と共産党の内ゲバを「ちょっとタンマな」と宣言(国共合作)。日本がアメリカにボッコボコにされたのを見計らって「よっしゃー、第二ラウンドや!」と意気込んだものの、ファンファン大佐の肝いりでバージョンアップを果たした共産党軍に連戦連敗、蒋介石は大陸にいられなくなり台湾に愛の逃避行……という流れでした。
斯くして「延安」は「革命の聖地」となったのでした。確かにこの理屈で行けば、「黒木御所」は「建武の新政の聖地」となってもおかしくは無いですね。
船着き場完備
さて、黒木神社に向かうための階段が見えますが、階段を降りた先をまっすぐ行くと……鳥居が見えます。厳島神社のような構造ではありませんが、船で岸までやってきてそのまま参拝ができるように、ということでしょうか。
島根県指定
階段の右側には「黒木御所」の由縁が。読みやすいように、拡大しておきますね。
ふむふむ。このあたりは「天皇山」と呼ばれているのですね。ここは島根県が指定する?史跡のようですが、島根県としては、後醍醐天皇の行在所は「島前説」をプッシュということなのでしょうか。
詳細不明
さらにその右側には……「忠魂碑」があります。……誰を顕彰している碑なのでしょうか。
あれっ?
では、階段を昇って「黒木神社」に向かいましょう。あれっ? なんでこんなところに……。続きは明日に!
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